2014年度

震災を忘れない

2014年度

私は今回のFSで初めて東北を訪れた。
震災直後は被災地の様子があらゆるメディアで報道されていた。しかし最近はたまに被害の統計や政府の復興対策が報道されるのを見かける程度だったので、震災から3年が経った今、被災した人々がどのような心境で生活しているのかは全く想像出来なかった。私は被災した人々は当時のことを語ったり、思い出すのは嫌なのではないかと思っていたので、現地の人々に震災のことを聞く勇気がなかった。しかし実際に行ってみると私の想像とは違っていた。まず、北上町の人々は私たちが聞くよりも前に震災当時のことを事細かに話してくださった。それも大人だけでなく、小学生の子どもまでもが話してくれた。そして何よりも驚いたのは、語られる衝撃的なエピソードからは想像もできないほど、北上町の人々が明るくふるまっていたことだ。震災から3年という時が経った今だからこその笑顔なのかもしれないが、少なくとも私たちの前では過去を振り返ることがつらいというよりは、未来に向かおうとする前向きな姿勢が見えた。このエネルギーは一体どこから来るんだろう、とまで思うほどだった。

しかし、決して復興が終わったわけでも震災を忘れたわけでもない。私は石巻に着いてすぐに見た光景が忘れられない。一面の原っぱの中に数軒の家が建っている光景だ。FSの間私たちがお世話になったPARCICの西村さんから、目の前の草が生えているところも以前は家があったと聞かされ驚いた。家は見渡しても数えるほどしかなく、ほとんどが雑草で埋まっているこの場所が全て家だったなんて想像できなかった。しかしよく見ると道路や家の塀らしきものもあった。所々に点々と家が建っているのは、運良く津波に流されなかった家だそうだ。そこは今は人が住めない地域に指定されており、家が残っているからといって人が住んでいるのかはわからない。その後大川小学校も訪れたが、言葉にならないほど凄まじい光景で、津波の恐ろしさや震災の悲惨さが嫌というほど伝わってきた。これらのように、今回の津波の被害を受けて居住が禁止された地域や震災後もそのままの状態で残された建物を見ると、3年前の傷跡がいまだにあちこちに残っていることがはっきりとわかった。

もちろん、目には見えない部分にもある。北上町の仮設住宅で暮らす、小学6年生の佐藤ひろや君が当時のことを話してくれた。ひろや君は普段はとても明るく元気な子だが、震災の話をしたときはいつもとは違った真剣な顔つきだった。ひろや君は津波から逃げたエピソードを語っている中で、「高台まで連れてきてくれた人がいなかったら、俺死んでたかもしれない。」と言っていた。被災したときはまだ小学2年生だったので、そんな幼いときに命が危険にさらされるような経験をしたのだ。そして避難生活が原因で、暗いところや狭いところがトラウマになってしまったそうだ。ひろや君の普段の姿からは想像もできなかったが、同じような経験をした子どももたくさんいるのだろう。

震災を経験をしたからこそ言える、私たちを気遣うようなことを言ってくださったのはひろや君の母であるのりこさんだ。「3年前の震災が東京じゃなくて宮城で良かった。」と仰っていたのだ。宮城は田舎だから人口が少なく被害も小さいし、たとえ配給がなくても畑があるから野菜は食べられるが東京ではそういうわけにはいかないだろう、と、いつか東京で大地震起きたときのことを気にかけてくださった。確かに、もしも東京で東日本大震災と同規模の地震が起きていたら、おそらく人的な被害は東日本大震災を上回っていただろう。いつか自分たちがボランティアをされる側になるかもしれないという可能性のことを、改めて気付かされた。そして同時に、ボランティアをされる・するということについて考えるきっかけにもなった。

ボランティアで被災地を訪れる人の中には物をあげれば良いと思っている人がま​​だいる、と小学校の裏山でプレーパークをやっているプレーリーダーの方から伺った。しかし物資の調達や瓦礫の撤去など外部の人間がすることのできる物理的な支援はほとんど足りている。物資ももちろん初めのうちは必要だっただろうが、被災した人々がその後自分たちの力で復興していくためには、精神的な面での支援が重要なのではないだろうか。

野菜の収穫、販売のお手伝いをした際にお会いした女性は「ボランティアの人がいなかったらここまで復興しなかった」と仰っていた。初めのうちはボランティアにやらせるのも申し訳ないような有様で、そこにあるはずにものが何もない、という状況だったそうだ。しかし現在は正直に言えばボランティアの手を借りる必要はないのだそうだ。だからといって来ないでほしいというわけではなく、今はボランティアは来てくれるだけで嬉しいと言ってくださった。FSを通して、はたして私は役に立っているのかと何度も自問したが、それを聞いて、応援してくれる人がいるということが前へ進むための力になっているのではないだろうか、と思った。今回お手伝いをさせてもらった方々は本来なら私たちがいなくても生活でき、プレーパークや仮設住宅で出会った子どもたちも私たちがいなくても楽しく遊んでいる。私が1人で支援をしようと思ったら、政府やボランティア団体、企業などとは違い、金銭面ではほとんど力になれないし、現地に行ってもできることは限られている。しかし、小さな支援をすることで復興へと向かう人々の背中を押すことはできたのではないだろうか。メディアで報道されるような物質的な問題は時間とともに解決されるが、高台移転やそれぞれが目指す復興の在り方など、人間同士でしか解決できない問題も新たに浮上してきている。たとえどんなに物が溢れる状態になったとしても結局は「人ありき」の世界なのだ。

家や学校が流されたりなどの大きな被害に会っていない私たちのような人々は時間とともに震災のことを忘れつつある。瓦礫の撤去や被害にあった建物の修繕が進むにつれて、メディアや私たちの中での東日本大震災が薄れつつあり、東京にいるだけでは一見復興が終わったかのようにも感じてしまう。しかし復興はまだ終わっていないし、限られた中でも私たちにできることはまだまだある。できることは小さなことかもしれないが、決して0ではない。被災した人々はたくさんの人に応援されていて、それぞれの目指す未来に向けて頑張っている。その姿を見た復興を支援するボランティアもまた勇気や元気を貰えお互い励ましあえる、そんな関係でありたい。