2012年度

北上町の人々

2012年11月08日

2012年度

私は今回の北上町での活動を通じて感じたことがある。それは、人と人のつながりの大切さだ。仮設住宅に住む人々とのふれあいや、いろんな人の話を聞いて、そのことをよりいっそう感じられた。

私たちは、主に午前は北上中学の敷地内にある畑で作物の収穫などの手伝いをし、午後からは日によって様々な活動をしてきた。近くには仮設住宅で生活する人々の畑もあり、農作業の時に顔を合わせる機会も多かった。私たちにも気さくに挨拶をしていただき、また話をする機会があった。畑に出てくる人数が増えてくると、休憩中に集まって談笑したりもした。このほかにも、ベンチに座って日陰で涼みながら話をしている人々や、外で遊ぶ子どもたちの姿などを見ると、本当に震災があったのかと思うほど皆明るく元気であった。

一方、同じ十三浜地区にある白浜復興住宅の雰囲気はまったく違っていた。日中は暑さの影響もあるだろうが、外に出てくる人の姿もなく、ただ家々がひっそりと立ち並ぶだけである。北上中学に隣接している仮設住宅と白浜復興住宅で、なぜこんなにも人々の様子に違いがあるのか。実は、白浜復興住宅で暮らす人々は、いろいろな集落から集まったばかりのため、地域コミュニティがまだ十分形成されていないのだ。一方、仮設住宅で生活する人々は同じ集落の人たちが集まっているので昔からの知り合いが多いのである。だから、自然と人が集まるような雰囲気となっているのだ。

高台に建設された白浜復興住宅。一軒家として建てられている。

高台に建設された白浜復興住宅。一軒家として建てられている。

今回は、ボランティア活動に加えて、十三浜の相川という場所で行われたカマガミロックフェスティバルの手伝いもさせてもらった。海の近くで行われたこのお祭りは、ロックというだけあって、ステージもあり、地元の人々による屋台も出された。この地域は、漁業が盛んで、被害を受けた人々は近くの仮設住宅で生活している。また、同じ地域でも高台にあった集落の人々は被害にあわなかった。お祭りに来ていたその集落の人の話を聞くと、明治時代におきた三陸大津波で被害を受けた人々の子孫で、津波高台で暮らしていたため今回の津波からも身を守れたそうである。その他にも、会場に来ていた人たちと一緒に食事をした時、津波の話を聞く機会があった。漁師の方によると、地震がおきた時には海に出ていたが、水平線の向こうに黒い山のような波が見え、それが1分もしないうちに陸に到達して全てを飲み込んだそうだ。津波の被害を受けた場所を実際に見て、そういう話を聞くと、自分が考える以上にすさまじいことが起きたのだなと実感させられた。  

それでも、この震災を乗り越えた多くの人は前を向いていると思う。カマガミロックフェスティバルでは大人から子どもまで歌をうたい、屋台も多くの人でにぎわっていた。なかにはお酒を飲んで盛り上がっていた人たちもいて、とても楽しそうであった。
津波の話をしていただいた漁師の方が言うには、一人でいるとふさぎ込んでしまうけど、他の人といるとそんなことも忘れてしまうほど元気が出るそうだ。人と人とのつながりが被災地の人たちに元気を与えているのだ。

今回お世話になった相川地区や仮設住宅の人々は、私たちの前では大変明るく接してくださった。それは、本当は建て前なのかもしれない。けれども、漁師さんが言ってくれたように私たちと接したことで少しでも元気を分け与えることができたのならば、今回の活動は意味のあったものだと思う。

津波の被害を受けた相川小学校の児童たち。校歌を披露してくれた。

津波の被害を受けた相川小学校の児童たち。校歌を披露してくれた。