台湾写真史にその名を刻む写真家・鄧 南光(本名・鄧 騰煇)は1920年代から30年代に法政大学で学んだ卒業生です(❶)。
南光は1907(明治40)年、台湾新竹県北埔郷の名家に生まれました。教育熱心な父親の下で地元の北埔公学校( 現在の北埔国民小学)を卒業すると、上京して名教中学校に入学、1929(昭和4)年に法政大学予科第2部、1931年に経済学部に進み、1934年3月に卒業しました。この頃の法政大学では、学生たち自らが法政大学のアイデンティティーを模索する「法政スピル運動」を展開するなど、戦前の学生文化が花開いた時代であり、関東大震災からの復興を遂げた東京は「モダン都市」の全盛期でした。
❶法大生時代の鄧 南光(北埔郷公所提供)
❷「酒場の女」(『CAMERA』1932年2月号)
在学中の南光はカメラ部に所属して主将を務め、築地の「カク写真館」に「法政大学カメラ部研究所」の看板を掲げ、そこを拠点に活動していたようです。専門雑誌『CAMERA』1932年2月号の口絵に掲載された作品「酒場の女」は、カメラ部主催の「第二回趣味の写真展」を見に来た高桑勝雄(写真ジャーナリスト)がその場で雑誌への掲載を申し込んで実現したもので(❷)、「全く素人の域を脱してゐる」(『法政大学新聞』第18号)と絶賛されました。
❸法政大学運動会の客席の女性(北埔郷公所提供)
愛用したカメラはドイツ製の「ライカA」。長らく貯め込んだお金で購入したライカを寝るときも必ず隣に、日中は毎日かばんに入れて登校し、同級生や街の風景を撮影したといいます。法政大学運動会の写真を見ると、印象的なのは競技の場面だけでなく、運動会を見に来た客席側の女性たちの姿を捉えていることです(❸)。当時、明治神宮外苑競技場で開催していた運動会は「純然たるスポーツ」の催しとして、多くの観衆を集めていました。ほかにも銀座・浅草・神田などの街角やモダンガールたち、伊豆大島など旅行先の写真が残されています。
大学卒業後は台湾に戻り、台北市内に写真店を構えるなど写真家として活躍し、1971年にその生涯を閉じます。しかしながら、南光の東京時代の写真が広く知られるようになったのは1990年代のことで、一躍その写実主義的な作品の再評価が進みました。そこには、1895年以降、日本の統治下にあったこと、終戦後も国民党の一党独裁による戒厳令が敷かれた台湾の歴史が背景にあるのでしょう。
HOSEIミュージアムでは、今年度春学期企画展示・特別展示で南光の故郷・北埔を紹介するとともに、南光のまなざしを通して、100年前の法政大学と「モダン都市・東京」について再考します。
HOSEIミュージアム 2026年度春学期企画展示
写真家・鄧 南光の視界 ―台湾から法政大学へ―
【期間】2026年 5月19日(火)~ 2026年 8月28日(金)(予定)
【会場】HOSEIミュージアム ミュージアム・コア(九段北校舎1階)、サテライト市ケ谷(外濠校舎6階)
制作協力:法政大学 HOSEIミュージアム事務室
(初出:広報誌『HOSEI』2026年4・5月号)