2020年4月、法政大学は創立140周年を迎えました。神田の地で産声を上げた本学は、1921年に市ケ谷に拠点を移し、都市化の進展や交通網の発展とともにキャンパスを広げてきました。
明治維新により、江戸が東京へと生まれ変わると、明治政府は外濠の内側に次々と役所を設置。その周囲の旧武家地には、各種の学校が設立されました。神田区には、官立の開成学校(東京大学の前身の一つ)や、明治法律学校(現・明治大学)、専修学校(現・専修大学)などが相次いで校舎を構えます。
法政大学の起源である「東京法学社」も1880年、神田区の駿河台に誕生しました。創立者たちが校名に「東京」を冠したのは、それが地名を超えて、前途洋々の若者たちを引き付ける象徴的な意味を持っていたからでしょう。私立の法律学校がひしめくこの地域には、下宿と古書店の集まる「神田学生街」が形成されました。
創立10年目に東京仏学校と合併し、「和仏法律学校」と改称した本学は、神田区から麹町区九段に移転。日本全国から「上京遊学」する多くの若者たちを受け入れるため、1889年に九段上校舎を新築しました。これは、本学が建設した初めての校舎です。
江戸時代に広大な火除地であった九段は、明治に入り現在の靖国神社が創建されるなど、新興の開発地で、神田に比べると緑豊かな高台にありました。甲武鉄道(現・JR中央線)が新宿以東に延伸され、市ケ谷駅が設置されたのもこの時期です。
その後、法政大学は専門学校から大学へと昇格し、1921年に麹町区富士見に新校舎を建設します。以後、この外濠に面した現在の市ケ谷キャンパスの地が本学発展の拠点となりました。
東京では、大正から昭和初期にかけて交通網が発達し、都市化が著しくなります。本学も、中野区新井薬師に運動場、武蔵野市吉祥寺に学生寮「法政寮」と、市ケ谷に連なるJR中央線沿線に施設を設置していきます。
その後の川崎市木月への予科の移転と大運動場の建設、付属校の開設、戦後における小金井キャンパスと多摩キャンパスの開発も、中心部の過密化や郊外の形成と大きな関わりがあります。本学の歴史をたどれば、明治から令和にかけての都市・東京の変遷をうかがい知ることができるでしょう。
取材協力:HOSEIミュージアム事務室
(初出:広報誌『法政』2021年3月号)
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