2015年度

Vol.87 創部100周年記念特別号 「法政スピル」で名選手を輩出してきた法政大学野球部100年の歴史

2016年03月17日

2015年度

2015年で創部100周年を迎えた法政大学野球部。東京六大学野球リーグ戦で優勝44回を誇り、名選手を輩出してきた伝統ある野球部の歴史を振り返ります。

創部から大学リーグ戦への参加と初優勝までの長い道のり

大正時代に入って早慶戦の人気で野球熱が高まる中、本学の学生たちも校庭や近くの靖国神社に集まり、自主的なサークルのかたちで野球を楽しみ始めました。本学の野球部が正式に発足したのは、1915(大正4)年のことです。12、13人のメンバーが大学に掛け合い、柏木(現在の新宿区北新宿周辺)に専用のグラウンドと野球用具を用意してもらってのスタートとなりました。

当時は、早稲田大学、慶應義塾大学の両雄に新興勢力の明治大学を加えた三大学リーグ戦の時代でした。野球部は創部の年から翌年にかけて三つの大学との対戦で健闘し、1917年春にリーグへの正式参加が認められました。

法政野球部をあしらった丸メンコ

法政野球部をあしらった丸メンコ

その後、1921年に立教大学、1925年に東京帝国大学(現東京大学)が加入し、現在の「東京六大学リーグ」が誕生します。当初のリーグ戦は、各大学のグラウンドを巡ってのホーム・ビジター制でした。1926年には六大学リーグ戦の専用球場として明治神宮野球場が完成し、大学野球人気が加熱します。ちなみに、同球場の初試合は法政大学―明治大学戦で、4対1で本学が勝利しています。

リーグ加入を果たしたものの、早・慶・明の厚い壁をなかなか破ることができず、しばらくBクラスに甘んじていました。しかし1929(昭和4)年、卒業2年目の藤田信男が監督に就任し、翌年にハワイ育ちの若林忠志が入部したことが大きな原動力となって、法政野球部はようやく悲願のリーグ初優勝を果たします。若林は、日本で初めてシンカーやナックルを投げた投手で、「七色の変化球」と呼ばれ、名を馳せました。

六大学リーグ戦の早稲田大学-法政大学の試合の入場券(1930年代)

六大学リーグ戦の早稲田大学-法政大学の試合の入場券(1930年代)

その後も快進撃は続き、藤田信男監督と、続いて弟の藤田省三監督の下で5回のリーグ優勝を刻み、戦前の黄金時代と呼ばれる時期を迎えます。後に「法政野球部の父」と呼ばれるようになった藤田信男は、当時から野球先進国である米国の最先端の理論や戦術を日本野球に導入した先駆者でもあります。

本格的な野球指導書を探していた藤田は、初めてのリーグ優勝後の米国遠征で、イリノイ大学野球部のカール・エル・ラングレン監督と運命的な出会いを果たします。ラングレンが自ら筆を執ったテキストブックには、写真入りの実技の解説の他、試合の戦術も詳細に説明されていました。

その素晴らしさに感銘を受けた藤田は、部員たちの協力の下にこの本を『野球読本』として出版。選手全員にも配布して実際の指導に用いました。藤田が取り入れた米国仕込みの野球理論は、現在に至るまで法政野球部の根幹を成しています。

カール・エル・ラングレン著、藤田信男訳『野球読本』(岩波書店)。イラストや写真による丁寧な技術解説を掲載

カール・エル・ラングレン著、藤田信男訳『野球読本』(岩波書店)。イラストや写真による丁寧な技術解説を掲載

六大学リーグ戦の中断と戦後の歩み

プロのリーグがまだなかった時代、六大学リーグ戦は人々の絶大な支持を集め、球場では学生同士の華やかな応援合戦が繰り広げられました。法政野球部を応援した学生たちの熱心さは、1929年に学生自身の手でつくられた応援歌に登場する「法政スピル(スピリットの意)」という言葉によく表れています。

太平洋戦争の激化により、六大学リーグ戦は1942年秋季リーグをもって休止に追い込まれます。戦争では、学徒出陣した現役野球部員とOBを合わせて26人の尊い命が失われました。

しかし、長い戦争が終わった1946年春には、早くもリーグ戦が再開します。神宮球場がGHQ(連合国軍総司令部)の接収を受けたため、当初は上井草と後楽園の両球場を使用した、総当たり1回戦のみのリーグでしたが、久しぶりに球音が戻ったグラウンドには、大勢の観客が押し寄せました。

戦前の黄金時代を築いた若林忠 志投手と倉信雄捕手のバッテリー

戦前の黄金時代を築いた若林忠 志投手と倉信雄捕手のバッテリー

日本の野球史を彩る法政野球部のOBたち

野球人最高の栄誉である野球殿堂入りを果たした法政野球部OBは、藤田信男と若林忠志をはじめ、島秀之助、苅田久徳、鶴岡一人、関根潤三、根本陸夫、松永怜一、山本浩二の9人を数えます。

さらに、「法政三羽烏」と称された田淵幸一、山本浩二、富田勝、今も破られていない通算最多勝利48勝を誇る山中正竹、そして「怪物」と呼ばれた江川卓など、今も語り継がれるプロ野球のスター選手や社会人野球の代表選手を輩出するなど、日本の野球界の発展に大きく貢献してきました。

六大学リーグ戦を舞台に、記憶に残る白熱の名勝負を繰り広げる法政野球部。100年の歴史の中で早稲田大学に次ぐ44回の優勝(うち4連覇3回)を録し、全日本大学野球選手権でも8回の優勝に輝いています。そして現役の野球部員たちは、次のリーグ戦制覇を目指して、日々グラウンドで厳しい練習に励んでいます。1世紀の長きにわたって受け継がれてきた「法政スピル」は、21世紀の球児の胸にもしっかり刻まれているのです。

1930年秋季、悲願の六大学リーグ戦初優勝

1930年秋季、悲願の六大学リーグ戦初優勝

野球人最高の栄誉である野球殿堂入りを果たした法政野球部OBは、藤田信男と若林忠志をはじめ、島秀之助、苅田久徳、鶴岡一人、関根潤三、根本陸夫、松永怜一、山本浩二の9人を数えます。

さらに、「法政三羽烏」と称された田淵幸一、山本浩二、富田勝、今も破られていない通算最多勝利48勝を誇る山中正竹、そして「怪物」と呼ばれた江川卓など、今も語り継がれるプロ野球のスター選手や社会人野球の代表選手を輩出するなど、日本の野球界の発展に大きく貢献してきました。

六大学リーグ戦を舞台に、記憶に残る白熱の名勝負を繰り広げる法政野球部。100年の歴史の中で早稲田大学に次ぐ44回の優勝(うち4連覇3回)を録し、全日本大学野球選手権でも8回の優勝に輝いています。そして現役の野球部員たちは、次のリーグ戦制覇を目指して、日々グラウンドで厳しい練習に励んでいます。1世紀の長きにわたって受け継がれてきた「法政スピル」は、21世紀の球児の胸にもしっかり刻まれているのです。

1930年秋季、悲願の六大学リーグ戦初優勝

1930年秋季、悲願の六大学リーグ戦初優勝

  • 2012年、秋季リーグ戦優勝の瞬間に駆け寄る選手たち

  • 2015年4月11日、春季リーグ開幕戦では 田中優子総長による始球式が行われた。女性総長による始球式は、東京六大学野球史上初

2016年1月19日(火)~2016年5月31日(火)、市ケ谷キャンパス外濠校舎6階展示スペースにて「法政大学野球部創部100周年記念展示」を開催

(初出:広報誌『法政』2015年度1・2月号)

これまでの「HOSEI MUSEUM」の記事は下記のリンク先に掲載しています。