日の丸や万国旗、提灯で飾られた木造校舎の前で教員を囲む学生たちの古い集合写真。元大阪弁護士会会長の佐伯照道氏が所蔵するこの写真は、氏の祖父で、1890(明治23)年7月に和仏法律学校を卒業した佐伯明道(宇之助)氏の遺品の一つでした。
明道氏は、和歌山で最初につくられた裁判所に書記として勤務した後、和仏法律学校に入学、ボアソナードの教えに感銘を受けて裁判官になりました。ところが明治政府の法モデルがフランス法からドイツ法に方向転換し、ドイツ法系の教育を受けた裁判官が重用されると、それに反発して裁判官を辞めてしまい、実業家に転身したというエピソードを持った人物です(佐伯照道『なぜ弁護士はウラを即座に見抜けるのか?』経済界2008年)。
写真は明道氏が卒業した時に和仏法律学校の校舎の前で撮った卒業記念写真と思われます。石原三郎「法政大学の過去および現在」(1907年)等によると、1889(明治22)年9月の和仏法律学校発足当時の学生数は約500人となり、それまでの神田柳町の校舎では狭くなったため新校舎を建築することになりました。そこで九段坂上の麹町富士見六丁目一六番地(現在の富士見1丁目「千代田区営富士見住宅・高齢者住宅」の場所)に315坪の土地を購入、1890(明治23)年7月に木造2階建て255坪の新校舎が完成し同月12日に第6回卒業式を兼ねて新校舎移転式を催しました。このことと校舎の飾り付けの様子から、写真はこの時に撮られたものと推測できます。
いつの頃からか「九段上(くだんかみ)校舎」と呼ばれるようになった新校舎は、1921(大正10)年に現在の市ケ谷キャンパスの校地に全面移転するまで、30年以上にわたってメインキャンパスとして機能、法政大学の基礎がつくられた記念すべき校舎といえるでしょう。
当時の教員・学生の中には、九段上校舎のことを「梧桐(ごとう(あおぎり))の校舎」と呼ぶ人もいます。校舎には正面と両横を囲む木の柵があり、建物との間の空地に梧桐が数10本植えられていました。これら梧桐が校舎のシンボルとなり、学生たちにとっては思い出の木になっていたようです。校舎は現キャンパスに移転後も分校として使われ、1923(大正12)年に大東文化学院に売却されましたが、同学院でも梧桐を大切にしていたといわれます。
1890年当時の校長は箕作麟祥(みつくりりんしょう)。法政大学校友会「卒業年度別校友名簿」によると、1890年7月の卒業生は約100人だった。現在、これ以前に撮られた卒業記念写真は見つかっていないことから、現在のところ最も古い卒業記念写真となっている
取材協力:北浜法律事務所 佐伯照道氏
法政大学史センター 古俣達郎
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