2011年度

Vol.43 法政大学大学史編纂室ほか所蔵「五大法律学校」と「連合討論会」関係資料

2012年03月29日

2011年度

「五大法律学校」と「連合討論会」関係資料

明治時代、日本には多くの私立法律学校が創設されました。その中でも主要な5校は「五大法律学校」と総称されていました。
「五大法律学校」とは東京法学校(法政大学の前身)、明治法律学校(明治大学の前身)、専修学校(専修大学の前身)、東京専門学校(早稲田大学の前身)、英吉利法律学校(中央大学の前身)を指すもので、後には専修学校に代わり日本法律学校(日本大学の前身)が入ります。
1886(明治19)年、「五大法律学校」は「私立法律学校特別監督条規」により帝国大学(現在の東京大学)総長の監督下に入ります。国家にとっては、不足していた下級官吏の人材を確保しながら、ともすると反政府的な自立志向を見せる私立法律学校をコントロールすることが狙いでした。5校の卒業生には特典として、官吏任用の機会や任用試験の受験資格が与えられましたが、それと引き替えに「監督」を受け入れねばなりませんでした。1888(明治21)年には「特別認可学校規則」により、5校は文部大臣の直接管轄下に入ります。

『東京五大法律学校連合討論筆記』(法政大学大学史編纂室所蔵)

『東京五大法律学校連合討論筆記』(法政大学大学史編纂室所蔵)

フランス法派の法政・明治と、イギリス・アメリカ法派の早稲田・中央・専修と、依拠する法体系は違いましたが、同一の条件下におかれたこともあって5校は共同歩調をとる機会が多く、かねてより交歓を深めていました。その関係を表す活動の一つが「五大法律学校連合討論会」です。 

1886(明治21)年に帝国大学講義室で開催された「第一回連合討論会」では、1500人もの傍聴者のもと、東京法学校校友の吉田初三がテーマを提示し10人の出席者が熱弁をふるいました。続く第二回討論会においては、富井政章(後の本学校長)ら、当時の司法分野の最先端にいる著名人が列席し、入場者を制限するほどの盛況となりました。ここで演説を行った渡辺洪基帝国大学総長は「帝国大学の監督下で」開催されたことを強調しましたが、実際には5校の自主的な討論会の性格が強まっていきました。

「連合討論会」の開催を告知する広告(『東京法学校雑誌』第9号)

「連合討論会」の開催を告知する広告(『東京法学校雑誌』第9号)

本学では「連合討論会」について『東京五大法律学校連合討論筆記』の第壱篇と第六篇をはじめとする関係資料を所蔵しています。この「筆記」は議事録に近い形で討論会を収めた雑誌で、どのようなテーマで、誰が、どのような発言をしたかを知ることができます。第壱篇には、「第七回連合討論会」で薩埵正邦が行った「望連合討論会」と題した講談も収録されています。

「連合討論会」は1896(明治29)年より本学に移管され、以後10年間続けられました。

「五大法律学校」は1918(大正7)年に公布された大学令により次々と「大学」に昇格し、日本の私立大学の一大基盤を形成しています。

「連合討論会」の入場券(上林信良氏 蔵)

「連合討論会」の入場券(上林信良氏 蔵)

(左)討論を収録したページ。発言に対する賛否の声(ヒヤヒヤ、ノウノウ)や(笑ヒ)、(拍手喝采)などといった記述も見られる。(右)『東京五大法律学校連合討論筆記 第壱篇』の目次。「講談」の4番目に「和仏法律学校講師 薩埵正邦君」とある

(左)討論を収録したページ。発言に対する賛否の声(ヒヤヒヤ、ノウノウ)や(笑ヒ)、(拍手喝采)などといった記述も見られる。(右)『東京五大法律学校連合討論筆記 第壱篇』の目次。「講談」の4番目に「和仏法律学校講師 薩埵正邦君」とある

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