お知らせ

言語はヒト・文化・社会への窓口 「言語から世界を見ると面白い」を伝えたい

  • 2016年10月11日
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法政大学 国際文化学部 国際文化学科
江村 裕文 教授


言語学を専門とし、1999年の国際文化学部設立から教鞭を取る江村裕文教授。
言語や文化の研究のほか、アラビア語やスワヒリ語等とともに留学生に対する日本語教育の授業なども行っています。

「“おはよう・おやすみ”類と“こんにちは・こんばんは”類はどちらも挨拶の言葉ですが、決定的な違いは何だと思いますか?使用する時間ではありません。親しい間柄<ウチ>かその反対の<ソト>で用いるか、です。夕刻、家の前で顔を合わせた父親に“こんばんは”とは言わないですよね。

また、ヨーロッパでは、デカルトなどの哲学者が、まず“我”を中心に社会が構成されると考えるのに対し、日本はまず他者が存在することを前提にして、自らを定位する傾向があると考えられます。

一人称の表現をヨーロッパの言語と比べると顕著ですが、ヨーロッパの言語では一人称の代名詞が“I” “Ich” “Je”など1種類であるのに対し、日本語には“私”“ぼく”“おれ”など複数存在します。それは、日本語では相手を前提にして、その相手にとって自分が“私”なのか“ぼく”なのか“おれ”なのかが決まるからです。言語を分析することでその背景となっている文化や社会体系が見えてきます」

言語学の魅力をこのように話す江村教授。さらに「言語はイデオロギーとしてヒトを縛るとともに、“生きがいのような夢”とも直結しているのです」と自説を展開します。

  • 国際文化学部資料室にて。江村教授も制作に携わった手元の『世界の文字大辞典』は古代文字もイラスト化し世界中の文字を歴史的・体系的に解説した一冊

国際関係への興味から言語学へ

英語や中国語、朝鮮語、ドイツ語、フランス語のほか、アラビア語やスワヒリ語も操り、ギリシア語、ヘブライ語等にも見識を持つ江村教授。今の研究分野に興味を抱いたきっかけは、中学生のころから通いだした日曜学校(※1)の教団が主催した合唱団で、19歳の時に訪れたイスラエルでの出来事です。

「『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクの父・オットー氏にお目にかかり、彼の“アンネのバラ”を配る平和活動に参加することを通じて、平和や国際関係に興味を持ちました。また高校生時代には、現代文明を支えるヨーロッパ文明の価値観に大きな影響を与えているキリスト教が、アジアで発祥したにも関わらずなぜヨーロッパに浸透したのか、という問題意識をもって、聖書で使われているヘブライ語やギリシア語にも自然と目を向けるようになったのです」

大学は、当時アラビア語(キリスト教と深い関係があるイスラム教発祥地域の言語)が設置されていた京都産業大学の外国語学部に進学。さらにアラビア語の研究を続けたいと東京へ拠点を移し、入学した三鷹のアジア・アフリカ語学院での言語学者・西江雅之氏との出会いが、進路を決定づけました。

「西江先生は言語学の世界で“天才”と呼ばれ、クレオール語(※2)を主に研究されている方。クレオール語は、その成立の当初は文法が同じ形式になるので“言語の普遍性を体現しているのではないか”という考えから“人間の言語とは何か”を解き明かす手掛かりになると期待されているんですよ。私も西江先生のように“言語学を通してみる世界って面白いよ”というのを伝えられる人間になりたいと思い、その気持ちは今も一番大切にしています」

その後、江村教授は一貫して言語の教育・研究に携わり、筑波大学留学生センター勤務時には、コミュニケーションを文字通りの言葉の意味に終止せず、「“ペン、ある?”と言われたら“はい、あります”という代わりにペンを差し出す」といった言語表現の機能をも射程に入れた日本語テキスト「Situational Functional Japanese」の制作にも従事。同テキストは日本語の文法的な構造を教えることに止まらず、言語行動の目的や言語表現の機能をも学習者に教えようと意図されているという意味で当時としては画期的なテキストであり、現在もなお発展を続ける場面や表現意図に応じたコミュニケーションのための言語学習の礎を築いた、と高く評価されています。
※1 キリスト教会が子どもへの信仰教育のために日曜に開く学校。
※2 異なる言語を話す人同士の間で生まれ、それが次の世代で母語として確立され話されるようになった自然言語。

  • 合唱団、オットー・フランク氏(写真中央)とともに(前列左から3番目が本人)

「空気」から世界平和へ

現在は、「空気」という日本人の言語を用いた人間関係の構築の仕方に関心を寄せている江村教授。「“甘え”や“もったいない”と同じように、誇るべき日本的価値観の一つだと感じています」と話します。

「日本語では、その場の雰囲気、つまり“空気”を読んで“水を差さない”言動をすることが期待されます。これは他との対立を回避しようという言語行動で、これまで“察する”“場面依存”“配慮”“心配り”“気配り”“心遣い”“気遣い”“嗜み”といった、日本文化を語るときに指摘されてきたキーワードに通じる考え方ですね。

小さな国土で譲り合って生きてきた日本人には、他者と絶妙な距離感を保ちながら心地よく暮らす知恵がある。その知恵を日本の小さな世界にだけ通用するローカルなものと評価しないで、他文化者にも納得できるような“コトバ”で地球全体の知恵にすることができれば、世界の平和にも貢献する一助になるのではないかと考えています」

国際化にむけて

言語の可能性を多様に説示する一方、江村教授は体験の重要性も次のように指摘します。

「近年、国際化の必要性が叫ばれ、——ここでは国際化とグローバリゼーションの違いについては避けておきますが——語学習得や異文化理解が求められていますが、日本人一人ひとりが異文化を引きずった他文化の方々とぶつかり合い、各自が変化をしていかなければ真の国際化にはつながらないと感じています。

さまざまな場所において国際化は議論されていますが、“国際化する”は自動詞でしょうか、他動詞でしょうか?“日本の国際化”は自動詞で“日本が国際的になること”という意味でつかわれることが多い。待っていては何もしないのと同じ。英語と同様に他動詞で考えるべきでしょう。誰が国際化するか。どのように国際化するのか。主語も目的語も日本人一人ひとり。手段は他者との出会い。その意味では、本学国際文化学部が設けている学部生全員の留学プログラムは有効な手段だと感じています。

  • 4月に開催された交換留学生のためのウェルカムパーティにて

日本人が海外で活躍するための国際化、海外で知識・ノウハウを身につけた日本人によって国内を活性化させるための国際化、海外の方を日本に招いて促す国際化……目指す方向性によって手段も変わるので改めてその目的を議論する必要があると思いますが。

いずれにしても現今の“グローバリゼーション”は、多様性を寛容に容認するという方向では考えられていません。英語即グローバルというイデオロギーは、産業界の意向が強く働いているように感じています。

私はその折々に興味を抱いたことにすぐに手を出していくという、いささか無謀な人生を歩んできたわけですが、好きなことを追い求めることで人生の楽しみを感じてきた身としては、今の学生にも大学時代は各自の興味を追求することで“自分の生きる道”を見つける機会にしてほしいと思っていますが、このような考えは時代の流れとマッチしないのかな(苦笑)」


江村 裕文(えむら ひろふみ)教授

法政大学 国際文化学部 国際文化学科
1951年 京都府京都市生まれ

1975年京都産業大学外国語学部言語学科卒業、1983年同大学大学院外国語学研究科修士課程修了。財団法人中国残留孤児援護基金中国帰国孤児定着促進センター・筑波大学留学生センターにおいて日本語教育に携わった後、1990年本学第一教養部専任講師、1999年より現職。

主な著書・翻訳書に『世界の文字大辞典』(朝倉書店、共訳)、『図説ことばの世界』(青山社、共訳)、『異文化適応をめざした日本語教育』(文化庁文化部国語課、共著)、『アフロアジアの民族と文化』(山川出版社、共著)などがある。