2025年3月、本学法務研究科(法科大学院)科長を務めていた高須順一氏が最高裁判所判事に任命されました。最高裁約80年の歴史において、本学出身の判事は小谷勝重、遠藤光男に続く三人目です。
一人目の小谷勝重は1890(明治23)年、京都府竹野郡丹後町間人村(現在の京丹後市)に生まれました。子どもの頃に「壮士芝居」で裁判の劇を見て、弁護士に非常な
魅力を感じたと振り返っています。上京して法政大学専門部法律科に進み、1914(大
正3)年に首席で卒業しました。1916年度の弁護士試験に合格すると、合格者45名中
の首席代表として弁護士試験及第証書授与式に臨み、答辞で「法律ハ社会ノ反影ナリ」と述べました(❶)。これは後の最高裁時代に語った「裁判官は社会を知る必要がある」に通じる表現であり、法曹としての小谷の理念だと考えられます。

❶弁護士試験及第証書授与式での「答辞」(1916年)
その後、郷里に近い大阪で弁護士として活躍していた小谷1941(昭和16)年、「日本取引所法制史論」により本学から法学博士の学位を授与されました。この学位論文は弁護士業務の傍らで8年の歳月をかけ、2,000件以上の文献にあたって書き上げたもので、単行本として出版した際には1,300ページを超える大著となりました。
日本国憲法の施行と同時に最高裁判所が発足し、小谷が初代判事に任命されたのは1947年のことです。その前年、会長に就任した大阪弁護士会からの推薦といわれています。定年退官する1960年までの間にはチャタレー事件や砂川事件など、数々の裁判を手がけました(❷)。
法政大学と小谷の関係に目を向けると、1950年、本学が戦後復興を推し進めようとするさなか、次期総長問題を検討するために開かれた各学部合同学生委員会で、大内兵衛や谷川徹三らと共に総長候補者として名前が挙がりました。実際に総長に就任することはありませんでしたが、長きにわたり大学監事として母校を支えました。

❷小谷勝重(最高裁の自室にて、1956年)
また、学生時代の小谷は弁護士試験合格を目指す学生たちの自主的な学習団体「知新会」を創設しました。その後、一時期途絶えたこの「知新会」再建に尽力した学生が法政二人目の最高裁判事となった遠藤光男です。小谷に法律討論会の優勝者への「小谷杯」贈呈をお願いすると、初対面の学生のぶしつけなお願いにもかかわらず、小谷は快く引き受け、遠藤をはじめ法曹を目指す学生たちが再び意欲的に活動を始めたといいます。
HOSEIミュージアムでは2024年、ご曾孫の小谷高秋氏より小谷勝重関係資料約80点を寄贈していただきました(❸)。法政大学の歴史をひもとく貴重な資料として大切に保管し、活用したいと考えています。

❸寄贈された小谷勝重関係資料の一部
制作協力:法政大学 HOSEIミュージアム事務室
(初出:広報誌『HOSEI』2026年2・3月号)