2011年度

Vol.21 法政大学 所蔵資料 大内兵衞の漢詩

2011年10月05日

2011年度

2009年2月24日、本学元総長で大正・昭和期のマルクス経済学者として知られる大内兵衞(おおうち・ひょうえ)(1888—1980)が揮毫(きごう)した漢詩の掛け軸3幅が、東京都三鷹市の社会運動資料センター代表・渡部富哉氏より本学に寄贈されました。

母校の東京帝国大学経済学部の教授だった1938(昭和13)年、大内は、人民戦線事件の第二次検挙で門下の有澤廣巳(後に本学総長)、美濃部亮吉(当時本学教授、後に東京都知事)らとともに逮捕されます。渡部氏によると、大内は警視庁早稲田署(当時)に拘置されますが、このとき、同署に拘置されていた日本共産党員の求めに応じて署内で揮毫した書を表装したのがこれらの掛け軸で、この党員の死後に同センターに寄託された資料の中から07年5月に発見されました。当時は新聞などでも大きく報道されています。

大内兵衞の漢詩を寄贈する社会運動資料センター代表・渡部富哉氏(左)と本学・増田総長。もともと掛け軸は4、5幅あったという。渡部氏は大内の次男である大内力(おおうち・つとむ)東大名誉教授に掛け軸を返却しようとしたが、同氏のご好意により本学への寄贈となった。

大内兵衞の漢詩を寄贈する社会運動資料センター代表・渡部富哉氏(左)と本学・増田総長。もともと掛け軸は4、5幅あったという。渡部氏は大内の次男である大内力(おおうち・つとむ)東大名誉教授に掛け軸を返却しようとしたが、同氏のご好意により本学への寄贈となった。

掛け軸は、大内自身による七言絶句が1幅、他の2幅は、唐の詩人杜牧(とぼく)の「烏江亭に題す」と、同じく唐の呂巌(りょがん)(呂洞賓<りょがんひん>)の「絶句」です。「昭和十三年初夏 於早稲田署 大内兵衞書」と署名のある自作の漢詩は、次のように読めます。

朝見梟盗摧銕錠
(朝<あした>に梟盗<きょうとう>の銕錠<てつじょう>を摧<くだ>くを見)

夕聞王師圧徐州
(夕<ゆうべ>に王師の徐州を圧するを聞く)

誰云幽囚必徒然
(誰か云う 幽囚<ゆうしゅう>必ず徒然<とぜん>たらんと)

別有史眼壷中濶
(別に史眼 壷中<こちゅう>の濶<ひろ>き有り)

第一句の「梟盗」は凶悪な盗賊、「銕錠」は鉄の錠前、第二句の「王師」は天皇の軍隊を意味し、この年、日本軍が中国・徐州を占領するなど国内外の騒然とした様子を述べています。そうした不穏な情況の中で、「自分は囚人として投獄されたが、決して無駄な日々を過ごしているのではない」とし、「自分には歴史を見る目(史眼)が備わっていて、壺の中のような狭い牢獄でも、視野は広々としたものだ」と、弾圧下にあって揺らぐことのない志をつづっています。

大内自身による無題の七言絶句。警察署の名前が入った書は珍しいという。

大内自身による無題の七言絶句。警察署の名前が入った書は珍しいという。

治安維持法違反容疑で逮捕された身でありながら、拘置所内でこれほど大きな書を揮毫できたのは、大内の友人である元警視総監の石田馨氏や東京帝大法学部教授の南原繁氏らの働きかけといわれます。当時、早稲田署の署長をしていたのは南原氏の教え子でした。
ちなみに、現在の市ケ谷キャンパス55年館511教室入口に掲げられた論語の一節「学んで思わざれば……」は、総長時代の大内の筆によるものです。


※ 漢詩の説明は、一海知義氏「別に史眼あり−−大内兵衞と漢詩」(岩波書店「図書」07年10月号所収)を参考にしました。

無題の漢詩とともに見つかった杜牧(右)と呂巌の漢詩。いずれも「堀見俊吉」という名前が見え、この人の求めに応じて書いたことがわかる。呂巌の漢詩の末尾にある「 痴」は大内の雅号。杜牧の漢詩は「捲土重来」の出典として知られるが、一海氏は、弾圧に対して捲土重来の思いをこの詩に託し、さらに呂巌の詩で、権力に屈しない真の男児たらんとの自負を示したのだろうと述べている。

無題の漢詩とともに見つかった杜牧(右)と呂巌の漢詩。いずれも「堀見俊吉」という名前が見え、この人の求めに応じて書いたことがわかる。呂巌の漢詩の末尾にある「 痴」は大内の雅号。杜牧の漢詩は「捲土重来」の出典として知られるが、一海氏は、弾圧に対して捲土重来の思いをこの詩に託し、さらに呂巌の詩で、権力に屈しない真の男児たらんとの自負を示したのだろうと述べている。

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