法政大学では、これからの社会・世界のフロントランナーたる、魅力的で刺激的な研究が日々生み出されています。
本シリーズは、そんな法政ブランドの研究ストーリーを、記事や動画でお伝えしていきます。
近現代科学は目覚ましく発展しています。私の専門である分子生物学や分子遺伝学は、その志向が「個」から「関係」に移り変わり、ゲノム科学として深化しています。このような「個」から「関係」への志向は、人文・社会・自然を問わない、現代科学の大きな潮流かもしれません。例えば、イタリアの物理学者カルロ・ロヴェッリ氏の著書『世界は「関係」でできている』は、物理学のトレンドが「個」から「関係」に移り変わってきていることを見事に記述しています。私の研究者としてのキャリアも、私の「個」の力より、多くの方からの影響や経験との「関係」から説明するとわかりやすいかと思います。
私にとって大学入学以前の関心事は、漫画『MASTERキートン』(小学館)と「ザ・ブルーハーツ」、そして「ボーイスカウトでの活動」でした。『MASTERキートン』の主人公から知的好奇心の尊重を、「ザ・ブルーハーツ」から「未来は僕らの手の中」にあることを、「ボーイスカウト」の野外活動からは、私たち人間には太刀打ちできない自然の畏怖を、それぞれ教わったように思います。ただこの3つに夢中になるが故に、将来についてまじめに考えることはあまりしていませんでした。いよいよ大学進学となった時に、進路指導の先生とのやりとりのなかで「農学部の農芸化学科」を勧められ、あまり深い考えがないままその道に進みました。ただ、今になって思えば『MASTERキートン』の主人公が学者であり、研究の世界にロマンを感じていたことも影響したかもしれません。
バイオテクノロジーを学べると思って入学したものの、化学の講義が主体で学問に対するモチベーションが一時下がった記憶があります。ただ、専攻した「農芸化学」とは「化学」を農学的に応用する分野であることを認知できたことで、学問というのは様々な関係の中で成り立つことに気付けたのは、貴重な経験だったと感じています。
そんな大学生活の中で転機となったのは卒業研究時。配属された生物化学研究室の先生が入れ替わり、バイオテクノロジーが専門の先生から教わることになったのです。この時、研究対象として「大腸菌」と出会いました。自分で遺伝子を組換えられることに感動し、もっと多くの技術を知りたいと修士課程に進学。その後、博士後期課程で博士号(農学)を取得しました。さらに体細胞クローンの研究室や、国立遺伝学研究所、近畿大学農学部を経て、2007年度から法政大学に赴任し、今に至ります。明確な目的を持たないままスタートした私のキャリアは、その時々、興味を満たす目の前の研究に実直に取り組んできた結果、築かれたものであると思っています。また、そのような私を公私や功利を問わず支えてくれた方々との関係が、これまでを紡いできたと強く感じています。
約40年前、生物のすべてのDNA情報である「ゲノム」を解読すれば、生物すべての性質を理解できると考えられ、20世紀末にはヒトを含む様々な生物のゲノムが解読されました。では、ゲノムが解読されたことで、生物の性質すべてを理解できたのでしょうか。答えは否です。
遺伝子の「個」を集合させたゲノムですが、その働きを理解するには、遺伝子の「個」の間に生じる「関係」を理解する必要があることがわかってきました。言い換えると、現代ゲノム科学において「遺伝子・ゲノム」の観点は、「個」の遺伝子の働きを知ることから、ゲノム上の遺伝子の働きにおける「関係」を知ることになっています。
私の研究テーマもここにあり、近年は大腸菌を活用し、単細胞生物の細菌が増殖を開始するシステムを、ゲノム上の遺伝子のはたらきの「関係」で解明することを研究の柱にしています。これを解き明かすためには、複数箇所のゲノム編集が不可欠だったため、2020年に「HoSeI法」を開発。この技術によりこれまで困難だったゲノム上の複数箇所編集を実現でき、現在、研究が飛躍的に進もうとしています。
細菌を用いた物質生産を扱う学問は、発酵学として古くから日本で研究されてきて、例えば「ウマミ」の成分であるグルタミン酸ナトリウムの工業的生産では、グルタミン酸ナトリウム合成が得意な細菌に作らせています。現代では化石燃料の代替となる燃料の生産を目指して、細菌ゲノムをデザインし創出しています。これは合成生物学として今注目されている分野です。私たちは金属の資源化を、この発酵学や合成生物学で実現できないかと考え、10年前から研究を進めてきました。「HoSeI法」の開発によって、パラジウムを鉱石と同じレベルで含有するパラジウム蓄積大腸菌の創出に成功しました。その成果は特許として出願中ですが、新しい金属サプライチェーンとして社会実装できればと思っています。
もう一つ実現したいのが、大腸菌への寛容な社会認知です。つまり人権ならぬ、「菌権」。大腸菌は、便から検出されたことからこの呼称がつけられましたが、実際ヒトの腸内にはわずか1%も存在しません。またほとんどの大腸菌は病原性を持っていないのに、「悪玉菌」というカテゴリーに入れられています。しかし、大腸菌は人類が生物の機能を知るうえで大いに貢献してくれました。PCR検査は、大腸菌なしでは開発されなかったと思います。人文でも社会でも自然でも、科学的な事実はたくさんの条件を前提としており、その条件は刻々と蓄積する知見で解釈が変わるはずです。それにもかかわらず大腸菌は「悪い」レッテルが貼られたまま。
私たちは、刻々と変わっていく社会において、科学的事実を普遍的に善悪で論じることはできません。その時々で、それらを如何に活用するかを考えることしかできないのです。つまり私たちがどう捉えてどう使うかは、私たちにかかっているのです。そのためには感覚だけでは難しく、みんなが事実に基づいた知識レベルを上げ、一定の結論に向かいお互い議論を尽くす必要があります。「菌権」を通して、そのような考え方をもっと広く共有できればと望んでいます。
現代は、知識や技術の量が莫大なだけでなく、従来の学問体系に収まらない学問分野が勃興しています。ゲノム生物学でも、例えばデザイナーベイビーと関係する「人権」の問題もあれば、オーダーメイド医療と関係する「健康」の問題もあり、一つの枠組みでは到底収まらない幅広い教養を求められる場面が増えています。しかし学修体系は戦後から未だ変更はなく、私には完全に破綻しているように見えます。
それをクリアする鍵もまた、「関係」だと感じています。過去の知見を習得する縦の「関係」、その知見を自由に再構築できる横の「関係」、そしてそれらの取り組みを誘発する好奇の尊重。いずれも人との出会いとそこでの経験に集約されるでしょう。私自身の学生時代を振り返ると、酵母の研究を学びに島根大学に滞在したり、AMBO(Asia molecular biology organization)トレーニングで国立遺伝学研究所に滞在したりするなかで視野を広げる機会を得ました。
本学に赴任後は多くの学生と研究を進めましたし、現在の研究を構築できたのも3名の博士後期課程の学生たちとの研究成果があったため。また英国バーミンガム大学とウォーリック大学の短期滞在、生命機能学科の同僚である川岸郁朗先生が始めた「法政大学・立教大学微生物研究会」への参加も現在を語るに欠かせない貴重な経験です。
これからも多くの学びに楽しみを感じ、自由な発想から見出した課題に興奮し、それの解決に没頭するのが私の目標。大学教員である限り、そんな「自由と進歩」を学生と体現し、大腸菌を介した新しい景色を見てみたいと思っています。
近畿大学農学部農芸化学科卒業、同大農学研究科農芸化学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(農学)。近畿大学農学部助手、バーミンガム大学バイオサイエンス学部客員研究員などを経て、2014年より現職。専門分野は分子生物学、分子遺伝学、ゲノム生物学。主な研究テーマは「細菌の増殖におけるゲノム構造の役割に関する研究」「CRISPER-Cas9システムを用いた大腸菌ゲノムの遺伝子多重変異導入法の開発」など。2014年に日本農芸化学会奨励賞、2021年に「貴金属に関わる研究助成金」奨励賞を受賞。