1929(昭和4)年、学生の間に校歌作成委員会が結成され、同時に経費の募金運動が始まりました。「学生委員が、帽子を持って学生の間を回ると、すぐ帽子が銀貨でいっぱいになった」といわれています。無論、当時校歌が無かったわけではなく、現在行進曲として歌われている「名大いなれ法政」が校歌だったのです。しかし、「我等が法政の意気を示すべく」新しい時代にふさわしい校歌が待望されたのでしょう。
学生の応募作品73編については意見の一致が得られず、結局佐藤春夫教授に作詞を依頼することになりました。作曲については近衛秀麿氏の快諾を得ました。作詞者、作曲者の間の激しい論争を経て、ようやく新しい校歌ができあがりました。近衛氏は1930年(昭和5)秋、洋行の途につき、楽譜は遠くベルリンから届けられて、わが校歌の誕生をみたわけです。
佐藤春夫は、抒情的な作風で知られる詩人で、小説や随筆などにも多才さを発揮した大正・昭和初期を代表する作家の一人。近衛秀麿は、後に首相を務める近衛文麿の弟で、指揮者・作曲家として草創期の日本のオーケストラ運動をになった人物です。
(1)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
見はるかす窓(の)富士が峯の雪
蛍集めむ門の外濠
よき師よき友つどひ結べり
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校
(2)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
われひと共にみとめたらずや
進取の気象質実の風
青年日本の代表者
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校