2017年度

10月

2017年度

10月31日(火)

日越大学の古田元夫学長がいらして、日越大学への本学の参加のしかたについて協議した。

10月30日(月)

台風は去ったが、まだ強風が吹いている。
校友会桑野秀光会長の傘寿祝賀・奥様の喜寿祝賀のパーティが、日本工業倶楽部で開かれた。折よく会長も私も着物で正装しているので、パーティの前に、校友会新聞の新年対談をおこなった。

10月29日(日)

午前中はすべて欠航。航空会社を変えて、午後になってようやく東京に向かうことができた。北山修さんの「アカデミック・シアター」は常連だったが、今回は間に合わなかった。夜になってようやく、1週間ぶりに帰宅。

10月28日(土)

また、台風がやってきた。
年に一度の本学校友会の行事「全国卒業生の集い」のために、理事、監事、職員たちと一緒に宮崎に行く……つもりだった。しかし飛行機は宮崎空港の上を旋回したあと、方向を変えてしまった。降りたのは福岡空港。そこからが大変。地下鉄で博多駅に行き、新幹線の切符を入手して乗り、鹿児島まで行って在来線に乗るグループと、新八代で降りてタクシーに乗るグループに分かれた。私は一刻も早く着いて、予定されていた講演は中止になるにしても、せめてご挨拶をと、より早く着く新八代ルートをとった。2時間タクシーに乗ったが、路上は豪雨と水しぶき。高速道路が通行止めになる前になんとかすり抜けた。

同行した皆さんの発案のおかげで、懇親会には間に合い、ご挨拶ができて、会場の皆さんとのいつものスナップ撮影会に間に合った。もうひとつのグループは、懇親会終了後に到着。「飲みに来たようなもの」だったが、同行者同士のコミュニケーションは充分にとれたようだ。一年間かけて準備して下さった宮崎県校友会の方々には申し訳ないことになったが、「忘れられない卒業生の集い」になったことは、確かである。

10月27日(金)

本学のダイバーシティ推進委員会の主催で、教職員を対象にしたシンポジウム「人材の多様性に大学はどう対応すべきか」を開催した。私は開会挨拶をする役割だったが、そのなかで、大学のダイバーシティは、「LGBT学生への対応」「障がい学生への対応」「働き方改革」に注力する必要があることを話した。

次いで、キャリアデザイン学部長でダイバーシティ推進委員会委員長の武石惠美子教授による「法政大学の現状と課題」、NPO法人Fathering Japan代表理事の安藤哲也氏による「教職員の働き方改革:イクボスのすすめ」、筑波大学ダイバーシティ・アクセシビリティ・キャリアセンター ダイバーシティ部門の河野禎之助教による「大学における推進の取組事例:LGBT/SOGIへの対応」と続いた。安藤哲也さんとは、法政オンラインでも対談したので、そちらも見ていただきたい。安藤さんの講演が終わった時には、男性職員から賛同の声と活発な質問が出た。

働き方は、どのような組織のリーダーであっても関心をもつべき大事な「現場」の問題だ。常に取り組んでいかねばならない。武石先生はじめ同委員会のご尽力で、とても興味深いシンポジウムになった。

10月26日(木)

日帰りで福岡に行く。毎日新聞主催の大学に関するフォーラム「第28回毎日大学フォーラム」に登壇するためだ。テーマは「これからの大学ブランディング」。志願者全国一の近畿大学・塩崎均学長および文部科学省の村田善則私学部長とご一緒した。九州の大学関係者約30人が集まって下さった。

近大の塩崎学長は独自性のある大学にすることを目標に、広報戦略を徹底した経緯を語り、村田部長は人口減少、若手研究者育成、地域格差などの課題を語った。私は、「法政大学のブランディング・プロセス」と題して、ブランディングワークショップなど、本学が教職協働でブランディング作業を進めてきた経緯を話した。ブランディングワークショップは関心を集めたようだ。

10月25日(水)

常務理事会、常務理事会懇談会と続く。その後、経営学部西川英彦ゼミの学生たちの訪問があった。実践的マーケティングとして、企業と提携して開発した、スポーツ応援用、法政大学カラーのパーカーを見せに来て下さった。かわいらしいパーカーだ。
今夜から羽田近くのホテルに泊まる。

10月24日(火)

午前中、職員理事として大学に大きな貢献をして下さった小川浩幸理事の葬儀が営まれた。享年57歳。早すぎる。前日の通夜から今日の葬儀に至るまで、たいへん多くの方がご冥福を祈りにいらしていた。私は弔辞を読ませていただいた。小川さんがどのような方だったか知っていただくために、その一部をここに掲載する。

「冷静ながらおだやかな笑顔で、常に、もっとも大事な指摘をし続けてくれました。そばにいらして下さるだけで、安心できました。失いたくないかたでした。まことに、無念です。

小川さんは本学法学部在学中には、少林寺拳法部で活躍されました。1983年に職員となられ、最初は学務部に勤務なさいました。そのあいだ、富士セミナーハウスを開設する担当者として、地元自治体、消防署、警察署との丁寧な調整をおこなって下さった結果、開設にこぎつけたと聞いております。

1997年には入学センターの主任として、国際文化学部・人間環境学部・情報科学部・現代福祉学部など、新しい学部の設置に伴う入試を担当され、入試制度改革の中心として活躍してくれました。 

2002年には施設部に移り、課長になられました。そのあいだ、現在のキャンパスの中心となる数々の大規模工事をご担当し、推進されました。外濠校舎建設、デザイン工学部棟の改修、富士見坂校舎の取得、小金井キャンパスの整備、そして法政中高の用地取得と建設が順調に進んだのは、小川さんの粘り強さと、近隣との対応の前線に立って下さった結果です。

2007年には総務部課長に異動され、大学の窓口として、学生センターと協力してキャンパスの正常化に貢献して下さいました。関係する裁判においても、危険をともなう数々の問題の先頭に立って下さいました。現在の安全な法政大学に至るまで、その中心的な役割を担って下さったのです。

2012年からは総務部次長、部長、法人本部の統括本部長を努めながら、同時に、大学と校友会の関係強化に貢献して下さいました。

総務部長としては常務理事会、理事会、評議員会の事務局運営、危機管理、訴訟等を担当され、法人統括本部長としては、総務部の他に人事部、経理部、卒業生後援会連携室も統括されました。統括本部長として常に、理事会に直言を下さり、学校法人経営の根幹を支えてくれました。

このように業績を振り返り数え上げただけで、多くの責任を負って下さったその重みを感じます。マラソン・ランナーとして軽々とこなして下さっているようにお見受けしましたが、おつらいことも多々あったのではないかと思えてなりません。

2017年から常務理事になっていただいた背景には、これらのきわだった業績と責任感だけでなく、そのお人柄に対する多くの教職員の信頼感と親しみがあります。誰もが、小川さんのことを好きでした。いらっしゃるだけでその場がなごみました。何よりも、危機や困難の中でもゆらがない芯の強さと、前向きの姿勢から、私はこの人こそ、難しい時代をともに乗り越えてくれる職員理事にふさわしい、と思いました。」

多くの職員の涙を見た。ほんとうに愛されていた方だった。心よりご冥福を祈っている。

大学に戻り、PHP研究所の雑誌、法政大学新聞の取材を受け、内閣官房による23区定員抑制についての説明と意見聴取に臨む。その後、デザイン工学部に行って、「建築フォーラム」で、陣内秀信先生と講演、対談をおこなった。テーマは「世界から見た江戸東京のユニークさ」である。つまり、申請中の私大研究ブランディング事業のテーマを、学部や大学院の学生の皆さんに聞いていただいたのである。

10月23日(月)

台風の影響がまだ残っている。文科省で会議があったが、来られない方が多く、定足数に届かずに不成立解散となった。

産経新聞の取材、サントリー美術館の企画会議と続く。

10月22日(日)

TBSの「サンデーモーニング」に出演。衆議院選挙の日で、しかも台風が来ている。選挙も台風も話題になったが、もう一つは中国だ。全国人民代表大会後の中国がどのように躍進するかにかかわって、日本の存在感の薄さに焦点が当たった。

昼前に薩埵ホール控え室に入る。東京新聞と琉球新報社が主催し、法政大学も後援する「東京・結・琉球フォーラム」の日だ。選挙と台風が重なって、翁長雄志知事がいらっしゃるかどうか危ぶまれたが、前夜に、選挙応援を終えてぎりぎりの航空機で東京に着いて下さっていた。講演開始前、控え室と薩埵ホールの客席で会話する機会があった。沖縄文化研究所を設立した中村哲(あきら)もと総長は、沖縄に行ったときは翁長家に宿泊したという。主に兄の助裕(すけひろ)氏(1936年―2011年)が話し相手になり、 雄志氏は、絵を描く中村総長に傘を掲げ、あるいは運転手をつとめた。兄の助裕氏は沖縄県の副知事をつとめたかたで、やはり法政大学の出身だ。1959年に法学部を卒業し、大学院へ進学なさった。雄志氏の14才年上なので、 復帰前、雄志氏が大学生のころはすでに琉球政府計画局で働いておられ、復帰直後には県議会議員になっている。中村もと総長とも、本学の沖縄文化研究所長もつとめた外間守善教授とも親しかったという。

講演では、沖縄県の人口と雇用が増え続けていること、とくに他県で教育を受けたのち、沖縄県に帰って来る人が多いこと、県経済における基地依存が少なっている今日、むしろ基地の存在が産業の発展を妨げていることなどを話された。ヘリコプター墜落炎上後、事故原因も分からないまま飛行再開となったことを、日米地位協定改定要望の問題として語られた。沖縄の現状とくに辺野古の問題は、事実を知らないことが判断の誤りを招く。知事はまず、事実を知ってもらうことに尽力されている。沖縄県刊行の『沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book』が配布された。わかりやすい良い冊子だ。

知事が選挙速報に間に合うように帰られたあと、川平朝清さん、津田大介さんとともにパネルディスカッションをおこなった。川平朝清さんは今年90才。兄とともに琉球放送を設立し、最初のアナウンサーとなった。復帰後はNHKの経営主幹。テレビでお見かけするジョン・川平、ジエイ・川平の父上である。川平家は琉球王朝につかえるいわば「貴族」のような家柄で、川平朝清さんの祖父は、琉球使節(琉球では「江戸上がり」と言った)に同行したという。琉球使節の関係者に直接おめにかかったのは初めてであった。

私は、中村哲総長時代に本学に沖縄文化研究所ができた経緯をお話しした。研究所のもとになった沖縄資料センターは、英米文学者で憲法問題、平和問題に取り組んでいた中野好夫氏が、私財を投じて1960年に作った組織である。「いずれ沖縄に関する問題は次々と起こるに違いないが、これではとうてい取り組むことができない。すぐに資料提供できるセンターが東京に必要」というのが理由だった。それを中野氏の希望と外間守善教授の尽力で、沖縄返還の年(1972年)に法政大学に移管した。中村哲総長は幼いころから柳田国男の近くにいて、沖縄には深い関心をもっていた。「沖縄は日本の文化を考えるとき、その原点となり、国際的な接点となるもので、宝庫である。言語学、民族学、人類学の最高の知識を結集すべき」と、研究所開設の折に書いている。

さらに、私の沖縄との出会いについても話した。日本文学科で、外間守善の「おもろそうし(琉球王国時代に編纂された沖縄最古の歌謡集)」の講義を聞いたのである。大学に入っていきなり「おもろそうし」と接することのできる大学はほかになかっただろう。その後、江戸時代の歴史を通して、朝鮮通信使と琉球使節に触れるようになった。琉球国は日本ではない。独立国であり中国文化圏に属する。江戸時代は薩摩藩に侵略されたが、それでも独立国であり続けた。それが明治政府による琉球処分をもって、日本に「併合」された。沖縄問題の根っこには植民地問題がある。

ところで、このフォーラムのあと、翁長助裕氏の文章を読んでいたら、中村哲もと総長は成城学園中等部(今の高校)では、「おもろそうし」の研究者である仲原善忠(1912年―2003年)がクラス担任だったという。沖縄と様々な出会いがあったのだ。さらに、中村哲氏の祖母は、浦上玉堂の系譜だという。浦上玉堂は江戸時代の武士身分の文人で、息子たちを連れて脱藩し、放浪の旅を続けていた人で、絵も詩も音楽もよくした代表的な文人である。長男は春琴、その子供は春甫というが、どのようにつながっているのか?ご存知のかたがおられれば教えていただきたい。

法政大学の歴史には、さまざま新しい発見があって興味が尽きない。つい日誌も長くなってしまった。

10月20日(金)

社外取締役をつとめている会社の小委員会と役員会があった。エレベータで一緒になった社員に、「ぼく法政大学出身です」と声をかけられる。グローバル企業には多くの卒業生が働いている。この4月にも女性が一人入った。折を見て、出身者の会合を開きたい。 

学校長会議が開催された。中期経営計画ワークショップを受けて、付属校と大学の教育の連携をさらに進める。

10月19日(木)

今日は大事な日だ。SGU(スーパーグローバル大学創成支援事業)の中間評価調書を提出したのだが、それに関する面接の日なのである。あらかじめ提示されている質問に、15分以内で説明をしなければならない。さらにその後、追加の質問がされる。ほぼ予定どおり順調に進んだ。最後の言葉が終わった瞬間に15分の合図となった。追加質問も、常務理事、副学長、そしてグローバル教育センターの課長が、具体的にわかりやすく答えてくれた。さて、評価はいかに。

10月18日(水)

常務理事会、理事会が開催された。夜は高円寺の「座 高円寺」で、藤原書店主催の「石牟礼道子を語る」が開催され、講演をおこなった。この講演については、毎日新聞のコラムで書くつもりである。

10月17日(火)

私立大学連盟の常務理事会、理事会が開催された。初めてスポーツ庁から「大学スポーツの振興」について説明があった。大学スポーツを国として位置づけ、その振興をはかる時代がやってくる。

10月16日(月)

長期ビジョン関連などの会議が続いた。

10月15日(日)

小金井キャンパスで開催された首都圏父母懇談会で講演をおこなった。その後、理工学部、情報科学部、生命科学部の学部長たち、そして尾川浩一常務理事とともに、パネルディスカッションに参加。AIがどのような社会をもたらすのか、学生たちはいかなる能力が必要で、就職をどう考えればよいか、興味深い話が続いた。

10月13日(金)

SGU(スーパーグローバル大学創成支援事業)中間評価面接に向けた準備がはじまる。

10月12日(木)

多摩キャンパスで学部長会議が開催された。久々の多摩キャンパス。空が開けていて木々が美しく、ほっとする。ほんとうに素敵なキャンパスだ。

10月11日(水)

定例の常務理事会、理事会が開催される。

10月10日(火)

校友の鈴木勝喜氏にご足労いただき、高額ご寄付のお礼を申し上げた。鈴木氏はコンピューターのパッケージソフト会社「プロシップ」の創業者で、現在は会長として活躍しておられる。1969年にITを予期した会社を設立し、1971年にはソフトウエア開発を始められた。まさにフロントランナーである。しかも地道に、企業が必要とするソフトを開発して来られた。卒業生のこのような生き方は、これからの学生にとっても、ひとつのモデルになるのではないだろうか。
法政オンラインの対談収録があった。今回は、やはり校友の福田明安氏との対談だ。福田氏は長いあいだの高額寄付者で、福田明安奨学金の創設者である。働きながら法政大学に通い、税理士となり、銀座で福田明安会計事務所を経営しておられる。海外の仕事も多くてがけられたという。その意欲と、優しくも筋の通ったお人柄は、やはり学生たちの生き方の模範としてふさわしい。

鈴木氏、福田氏お二方とおめにかかって、寄付文化について考えさせられた。寄付は周囲や社会への感謝の気持ちの表れであるとともに、寄付した対象への敬意である。しかしそれだけではない。私の経験でも、寄付はその対象とのつながりを継続するもっともよい方法なのである。多くの組織は寄付者に対して、活動の記録を送る。自分の寄付がどこにどう使われたか分かるとともに、その対象となる地域、世界の動向、苦難の経緯など、現代社会について学ぶことが極めて多いのである。

10月7日(土)

司法試験合格祝賀会が開催された。合格率をさらに上げることが、法科大学院進学者たちへの責務である。法政大学らしい教育方法をさらに検討したい。

10月4日(水)→5日(木)

一日損をして、次の日の到着となった。飛行機の中ではやはり眠れない。20ドルも払った機内インターネットは、往復とも使いものにならず予定の仕事が進まない。

10月3日(火)

昨年度のロンドンに引き続き、米国時事通信社主催のトップセミナーで講演した。このセミナーは、現地の日系企業や領事館等の関係者を中心としたネットワーク作りの場のようで、月一回、昼食をはさんで講演を聞く。今回は70名ほどの参加で、いつもより女性が多いそうだ。いわゆる大手企業はだいたい参加されている様子であった。

講演終了後、大渋滞のタクシーで、セントラルパーク沿いに北上して、コロンビア大学日本文化ドナルド・キーンセンターをお訪ねする。現所長のDavid Lurie教授とアシスタントのNiiya Yoshikoさんが、キーン教授のお気に入りなのだというチョコレートを用意して、あたたかく迎えてくださる。

本学の国際日本学研究所をはじめ、ユニークな長い歴史と貴重なコレクションをもつ能楽研究所、沖縄文化研究所、大原社会問題研究所などのことをお話すると、恥ずかしいことだが、と、本学にこうした研究機関があることを知らなかったとのこと。今後、機会をみつけて研究者や院生の交流や、いずれは共同研究も行えればという話をした。

コロンビア大には日本研究を専攻する院生が博士・修士あわせて30名ほど、他に20名ほどは既に学籍離れ日本での留学生活も終え、大学周辺で博士論文執筆に取り組んでいるという。早稲田大学とはダブル・ディグリープログラムをもっているが、院生の日本留学については、機関と機関の関係より指導教員の日本でのネットワークに拠るものが大きいということだ。

アメリカでは日本の科学研究費補助金にあたる研究資金が、残念ながら人文科学分野には今ほとんど無いのとのことで、コロンビア大学の日本研究者も日本の科研費を取るなどして、研究の推進には大変苦労されているという。アメリカ社会の一面をみる思いがした。

10月2日(月)

昼近くから夕方まで、マンハッタンの真ん中にあるThe New School大学を訪問し、多くの方々とおめにかかった。

毎年の海外出張では、せっかくの機会を活かし、法政ミーティングの他に講演会や、本学と相通じる文化・学風をもつ現地大学への訪問(協定締結への一歩)をしている。同大学の成立についてはリンクに詳しいが、コロンビア大学の教授であったJ・デューイやT.ヴェブレンなどが、当時の伝統的な大学教育のあり方に疑問を感じ、学生と教授が活発に議論を交わして社会の現実に直接かかわっていける学問をすべきだと考え、the New School for Social Researchという名で設立した。

今もあるFaculty of Social Researchは、狭義の社会学や社会調査ではなく、哲学、人類学、経済学、歴史学、政治学、心理学、社会学などの人文・社会科学を背景に、都市研究、ジェンダー、ジャーナリズムなど広範な社会的課題に取り組む。第二次大戦後には、定評の高かったParsons Design Schoolを統合し、他にJazz Schoolで知られるPerforming Artsのカレッジも設け、大学院中心に、今では9000人ほどの学生院生が学ぶ場となっている。

この日のはじめは、その社会学科で学科長をされている日本人の教授である池上英子先生にお目にかかり、お話をうかがった。私は毎日新聞書評委員(総長就任にともなって辞任)のとき、その著名な著書『美と礼節の絆(英語で書かれたBonds of Civilityの邦訳版)』を毎日新聞で書評した。池上さんはその時以来、ご自分の仕事の一番の理解者だと感じて下さったそうで、今回の偶然の初対面を大変喜ばれて、終日アテンドくださったのだ。昼食を食べながら、池上さんの新しい著書である『ハイパーワールド:共感しあう自閉症アバターたち』の話に及んだ。これはテレビ番組にもなっている。

この著書の企画の基盤には『美と礼節の絆』があると直感し、「つまり同じ仕事をやっておられるのですね?」と。そこで、私と池上さんが共有している、「連」「ネットワーク」論に話がはずむ。江戸文化アバター論だ。

午後はSchools of Public Engagement のMary Watson上級学部長はじめ同学部の先生方(Profs. Jonathan Bach, Sakiko Fukuda-Parr, Luis Jaramilloの各氏)とのミーティング、この大学らしい学生の案内でキャンパスツアー、そして最後にDavid Van Zandt学長、Carol Kim上級副学長(国際担当)らとの面会と続いた。

School of Public Engagementの皆さんとの場で同学部長からうかがったお話で興味深かったのは、この大学では年間1400ものイベントを開催しているという話。Engagement Learningというデューイ以来の実践的な学びのあり方を受け継ぎ、多様なレベルでの対話、ディベート、イベント企画などの、interdisciplinaryで型にはまらない学びを通じて、知的・社会的・政治的な陶冶をはかっている。教員たちは、この大学の歴史に裏打ちされた「個性(ブランド)」を知って着任するので、ユニークな教育・研究のあり方を今でも集団的組織的に展開できているとの話だった。

最後の学長・副学長との面会では、今後の大学間連携(協定)に繋がる機会となった。今回お世話になった池上先生やSchool of Public Engagementの福田先生、他にデザインスクールにも日本人教員がおられるとのこと。また同大やコロンビア大学、ニューヨーク大学等が参加し、NY市内で日本語教育のコンソーシアムもあるとのことで、今後の様々な連携の展開に期待がもてる。本訪問の調整でギリギリまで丁寧にコンタクトくださったグローバル教育センター事務部に感謝したい。

10月1日(日)

法政ミーティングから一夜明けて、本日は日曜日。今日も快晴でさわやかな秋晴れの日。昨夜もお連れ合いを伴い参加くださったミサコ・ロックスさんが、漫画教室や漫画家庭教師で大忙しの合間を縫って、昼食から午後にかけて、SOHOなどニューヨークのダウンタウンを案内下さった。比較的裕福な家で、子供たちのために漫画の家庭教師を雇うとは、意外なことだった。

私が1979年にNYで暮らしていた頃、オフ・オフ・ブロードウェイのパーフォーマンスを見るために足繁く通ったEast Villageという地域がある。倉庫跡を改造して、ギャラリーや多目的空間が作られていたころだ。その代表ともいうべきLa MaMaシアターに、実はミサコさんもいっとき「出演」していたという。

暮らしていたEast11stにも行ってみた。当時はよくボイラーが止まるようなアパート地帯だったが、今や部屋代は高額だという。