2016年度

10月

2016年度

10月28日(金)

夜、大学の課題に関心ある教職員たちと語り合う機会があった。常なる問題は、教学改革のための財政蓄積を目的にした徹底節約体制と、目前にある課題の解決への投資と、どうバランスをとるか、である。留学生たちの増加にどう臨むか、多摩キャンパスの課題と短期的・長期的にどう取り組むかなど、目前の課題もいろいろある。しかし私が皆さんから学んだ第一のことは、策定した長期ビジョンを実現していくためには、さらなる対話の積み重ねが必要であることだ。「総長の登場は最後です」と言われ、ずいぶん遠慮してきた。担当を真摯に担ってくれている理事たち、副学長たちの多忙さ、ビジョン策定の際の座長たちの活発な動き、多くのことで代理してくれている総長室長の八面六臂の活躍など、皆さん本当によくやって下さっているが、やはり私は、私自身による対話が足りないと思い続けている。

10月26日(水)

経済産業省と編集工学研究所で設定している「極めてラディカルな議論」の場を、「日本再考研究会」と呼んでいる。今夜もその議論の夜だった。レジュメに踊る言葉が官僚的でない。「茫然自失…立ちすくむ日本」「全ては現実直視から」等々。広範囲に議論しているが、迫られている政策としては、「著しく高齢者に偏っている財政支出を、若年層への教育投資に移し変えるにはどうしたらよいか」である。その先には「課題解決先進国日本」としてのさまざまな解決方法の発案があるが、いずれにしても、それを実現する高等教育を受けた若年層がいなくてはならない。そして、財政支出移し変えには、戦後日本が作り上げた国民皆年金、国民皆保険、定年制度による人生イメージという壁がある。いや、計算が合っていればそれは壁ではないのだが、もはや壁になりつつある。そのことを、あと3ヶ月で高齢者になる私は考え続けている。

10月22日(土)

キャリアセンター職員による、実践した業務や、これから挑戦しようとする試みについての、6組のプレゼンテーションを聞いた。就活イベントの通知に葉書を使うことによって参加者が急増した試み、講義型や個別相談のほかにワーク型を導入する案、Uターン就職を増やすための秘策等々、職員たちが日夜、学生との距離を縮め、相談にしっかり乗ることで就職の役に立ちたい、と熱望していることが、心から納得できた。実に興味深く、面白かった。正課授業との連携など、私の中にもさまざま新しい案が浮かんできた。他の部署の職員の皆さんも、様々な実践とアイデアを聞かせて下さいね。

10月21日(金)

本学理工学部の物理学者、松尾由賀利教授の紹介で、国立研究開発法人・科学技術振興機構のダイバーシティ推進室長、渡辺美代子氏が来訪。2017年5月に開催されるジェンダーサミット10への協賛、協力を求めていらした。ジェンダーサミットとは、性差を科学の重要な要因と捉え、研究とイノベーションの質の向上を目指す国際会議で、2011年に発足し、欧州・米国に次いで、アフリカ、 アジアへと世界各地へ展開中とか。2017年は日本で開催されることになった。テーマは「ジェンダーとダイバーシティ推進を通じた科学とイノベーションの向上」である。もちろん協賛したい。

渡辺さんのお話が面白かった。薬の動物実験ではオスを使う。メスではホルモンの変化で安定した結果が出ないからだ。しかしそのようにして作った薬には、女性に効かないものがあるという。また、車のシートベルトは成人男性の体格を基準にしている。その結果、妊婦の死亡事故につながっているという。実際に私はシートベルトが首のところにかかるので苦しく、必ずハンカチを挟む。自分の身長が低いせいかと思っていたが違った。

中学高校時代に科学に関心をもつ女性たちが、大学進学時に理系を選ばないという傾向は私にも心当たりがあり、未だに変わっていないことは衝撃だ。それより衝撃だったのは、若い男性たちのメンタルな弱さが際立ってきて、将来の社会の不安材料になっているという話だった。男性をどう救うか、それがジェンダーの課題になる時代が、ついにやってきた。

10月20日(木)

経済産業省と編集工学研究所による懇談会の2回目だった。危機をどう乗り越えていくか、幾多もの案が議論されたが、まだ報告できる段階ではない。たいへん刺激的な興味深い議論であることは確か。

10月17日(月)

社会学部教授でフランス史の専門家だった故・相良匡俊(さがら・まさとし)名誉教授の夫人から、「東京音大の付属図書館で、相良匡俊・シャンソン関連資料の公開が始まりました」というお知らせを受けた。チラシやパンフレットもできあがった。

私は相良先生から、国際日本学インスティテュート運営委員長を引き継ぎ、人文科学研究科に位置づけて安定させることや、留学生の論文指導などについて苦楽をともにした。亡くなったあと、膨大なシャンソンの資料が見つかった。楽譜289点、和書51点、洋書975点、録音資料116点、合計1,431点。残念ながらこれを活用するのは本学の学生や教員ではない、と思った。社会学部の伊集院立名誉教授や、文学部の小林ふみ子教授のご尽力で、東京音大に収まったのである。シャンソンは歌であるが文学でもある。関心のあるかたはぜひ活用して欲しい。

10月16日(日)

久々のサンデーモーニング出演。もちろんボブ・ディランの話題も出る。もうひとつ注目すべきトピックは、12日に起きた都心大停電である。電気に頼りすぎる生活をどうすべきか。求められるままに供給し続けるのではなく、供給量を定めて、その範囲の中で考え抜き、工夫し、それに合わせた製品開発をすべきであろう。江戸時代の夜は行灯しかなかったから何もできなかった、というわけではない。行灯でも読める本や浮世絵を刊行し、電気の無い劇場を効果的に使い、日本文化を完成したのである。制限のなかで、それに合わせて生活を作り上げるときに、新しい可能性が出現する。

午後は、法政大学外濠校舎で開催された比較文学会で「天災と共存する人々」という話をした。これも電気の無い状況をどう生きるかと同じ。行政に頼れない江戸時代の人々は、倒壊した家屋の雨戸やふすまや障子や畳で仮設住宅を作り、互いにものを持ち寄って切り抜けた。やはり課題は日常のコミュニティのありかたなのである。

10月15日(土)

首都圏父母懇談会は毎年、3キャンパスで開催されるので、私は順次めぐることになっている。今年は多摩キャンパスにおける懇談会が、多摩祭のこの日に開かれた。キャンパスは晴れ渡ってさわやかな秋風が吹き、たいへん賑わっている。保護者の方々も多摩キャンパスののびのびとした広さを味わって下さった。

10月14日(金)

有志の大学が組織している大学基準協会の総会が開催された。大学基準協会は国から規制を受ける前に、国公私立の個々の大学が自らの独自性に基づいた目標を設定し、そこに向けて自己評価をしながら、絶えざる改革をおこなうための団体だ。毎年、総会は学ぶところが多い。今年はとくに第三期認証評価の詳細を案内する日で、大学改革は、今まで以上にその目標と手順と成果を明確にしなければならないと感じる。

10月13日(木)

今週は常務理事会、理事会にも復帰。まだ時差による不調は直りきらないが、少しずつ回復を待つ。今日は年に1度の、多摩キャンパスで学部長会議を開催する日である。終了後懇親会が開かれた。3人もの学部長が女性である。総長室長、職員を含め「女子会」で一角を固めて充実した会話。そのあいだに、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したという知らせが入る。嬉しくて思わず立ち上がって、学部長たちにその知らせを届けたが、皆さん私よりかなり年下である。ピンと来ないかたもいらしたようだ。

ボブ・ディランは、私の世代やその上の団塊の世代にとって特別な存在であった。1960年代後半、米国より少し遅れて始まったフォーク・ブームの中で、私もギターを手にとって「風に吹かれて」を歌っていた。社会運動と歌は一体だった。プロの歌手に歌をまかせるのではなく、誰もが自分で歌う時代が、フォークによってもたらされた。そして「フォーク・ゲリラ」と表現したように、新宿西口広場でも路上でも学校でも、どこでも歌うものだった。ボブ・ディランはその動きの出発点であり、象徴だったのである。

この受賞にはもうひとつ意味がある。歌を文学の世界に取り戻したことだ。日本の文学は「歌」を基盤にしている。記紀歌謡、万葉集、古今和歌集。梁塵秘抄、能の謡いなど、文学の礎(いしずえ)はいつも歌だった。物語も歌から生まれた。歌は抑揚とリズムをもっていて、平家物語のように琵琶に合わせ、浄瑠璃のように三味線に合わせる文学もあった。近代文学の始まりとともに、小説が文学の中心に据えられ、歌や語り物は背後に追いやられた。ノーベル・アカデミーの選考は、文学の概念を本来のありようまで、再び広げたのである。

10月6日(木)

ロンドンの数日、strandにあるホテルからビッグベンまで、テムズ河畔をジョギングしていた。そして欧州出張最後の日、テムズ川で船に乗った。江戸時代は隅田川を中心に、川を交通手段として日常的に利用していた。パリもロンドンも江戸も、川と運河で発展した。18世紀の移動を少しでも経験するために、私は中国やウィーンやさまざまなところで機会があれば船に乗ってきた。横浜で生まれ育った私には、海と港もまた経験の原点になっている。水辺はそこから世界が拡がるのである。拡がったものをたたんで、帰国する。

10月5日(水)

時事通信社ロンドントップセミナーで講演した。会場となったThe Lansdowne Clubは、ロンドン市内に多くあるジェントルマンズ・クラブのなかで、女性にもっとも早く開放したところだ。そこが、1902年の日英同盟調印式をおこなった会場でもあった。講演会の主たる参加者は、大使館関係者、各種国際機構、英国で展開している日系企業トップの方々約100 名である。在英総括公使兼総領事や公使も参加され、商社、銀行、 証券、航空会社、旅行社、不動産会社、人材派遣会社、メディアなどなど、実に多様なビジネスマンの方々とお目にかかった。

ポンドが急落したこの数日、ロンドンは活気づいていた。町はバスと車と人であふれかえっていて、これがEU離脱可能の遠因だったのか、と思う。しかし一方、私たちが立ち入らない地域の目に入って来ない人々の中に、貧困は一層拡がっているということを、同行してくれた教育学が専門の社会学部教授でもある平塚総長室長から学んだ。多くの大学の教職員には、大学にも来られない若者や子供たちの貧困が見えていない。しかしそれを知らなくて何が教育か。

10月4日(火)

昨年の欧州校友会出張では、デンマークのロスキレ大学を訪問し、視察と同時に大学間協定の締結をした。そこで大いに学んだ。日本における大学の典型から解放されたように思えた。今年は、ロンドン大学(University of London)の一翼であるBirkbeck 大学を訪問した。オックスフォード大学がカレッジの集合体であるなら、ロンドン大学は大学の連合体である。Birkbeck 大学は間もなく創設200年を迎える。1823年、ロンドン市内Strand地区のパブに2000人もの労働者が集まり、技師のための高等教育の機会を!と声をあげたことが起源だった。それ以来、働く成人を対象にした夜間開講の大学として展開してきた。自然科学、法学、人文科学、経営学、芸術の5 学部をもち、学部学生8000人、大学院生900人。夜の6時から9時、週に4日のみ開講している。どうすれば社会人が働きながら学び続けることができるのか。これは世界全体の課題だ。米国のジョージタウン大学には生涯教育学部がある。本学の通信教育部の歴史をどう活かすか、考えさせられた。

研究担当副学長 Julian Swann 教授、法学部長など3人から大学の話を伺い、校舎を見学し、大英博物館のレストランでランチをとりながら、EarlyModernとはどういう時代か、などの話がはずんだ。Julian Swann教授の専門はフランスのEarly Modernとフランス革命で、私の江戸時代研究と時代が重なるのである。

その後、ロンドン博物館を訪問。ロンドンそのものがテーマの博物館で、その企画は江戸東京博物館のモデルになったのではないかと思われた。思わずロンドンの歴史と構造に興味をもってしまう面白い博物館だ。現在の企画展はロンドン大火。火事の「火」をテーマにトートバッグやスカーフまで作っている。明暦の大火をテーマにミュージアムグッズを作っても、日本では嫌われるだろうな。

10月3日(月)

法政大学では、新しいかたちのミュージアム構想を練っている。一言で言うと、豪華な建物より、積み重ねてきた研究と教育の軌跡を全世界に発信するかたちのミュージアムであり、大学3キャンパスと3付属校をつなぐミュージアムである。関係者は国内でミュージアム視察をおこなってきた。そこでこの機会に、オックスフォードとロンドンでミュージアムを訪問した。この日はオックスフォード大学Pit Rivers Museumを訪問。自然科学博物館に隣接した人類学博物館で、世界中から収集した、身体装飾、室内外装飾、布、農工具、漁業具、刀剣、鎧甲などをぎっしり展示している。人類学や民族学の博物館によくある徹底収集、徹底展示型で、法政大学の構想の対局にある。研究者としてはたいへん面白かったが、このようなミュージアムのイメージを、法政大学は超えねばならない。
 

私は何度かここに足を運んでいる。この日は休館で行かれなかったが、世界最初の大学博物館であるAshmolean博物館にもたびたび訪れた。1993年、もう23年も前のことである。在外研究員として1年間、Water Eaton Roadの、オックスフォード大の教員が所有しているアパートの一室に滞在し、ボードリアン図書館やブラックウェル書店に通い、フランスやオランダやドイツにも出かけ、テキスタイルの交易史についての英語論文を書いていた。Water Eaton Roadは背後に広大な牧草地が見える場所で、そこで飼われている牛はオックスフォード大学の食用であった。なつかしくてちょっと歩きに行ってみたが、アパートの建物を含め、ほとんど景色が変わっていないことに驚いた。ここが1000年の歴史をもつ大学と大学町であることを考えると、法政大学はまだ生まれたばかりなのである。

オックスフォード大学は39ものカレッジで成り立っている。そのカレッジのひとつが直営しているというパブLamb and Flagにも行ってみた。このパブは、その売り上げのすべてをカレッジの学生の奨学金に充てているという。居酒屋の上りで奨学金――これはやってみたい。居酒屋はそもそも、イギリスでも日本でもカフェと同じように「集う場所」だ。議論の場所でもある。裁判所の機能をもっていたところもある。教職員たちが集まって食事し議論することで、それが奨学金になる。素敵だ。

10月2日(日)

パリでの法政ミーティングを終えて、ユーロスターでロンドンへ移動。ロンドンで英国校友会総会が開催された。こちらはすでに正式な校友会が発足している。英国校友会は、2012 年に100名規模のヨーロッパ法政ミーティングがロンドンで開催されたのを機に組織され、毎年 2 回程度の会合を開いているのだ。企業や日本の各種組織の方々はもちろん、ロンドンで日本人学校を立ち上げた英国滞在50年になる女性や、起業なさった方、駐在員の家族として滞在している方など多様だが、英国校友会で楽しかったのは、法政OGに、他大学出身のお連れ合いが同伴して参加、という方が複数いらっしゃったことだ。

今回も、校友会の桑野会長、本学の平塚総長室長、卒業生後援会連携室職員とともに渡欧した。桑野会長は、世界13ヶ国で事業展開している曙ブレーキの副社長、副会長を歴任し、現在は名誉相談役のお立場だ。その曙ブレーキのフランス現地社員、山田美香さんにすっかりお世話になった。校友会、学内、学外の皆さんのおかげで、今回もまた校友会が拡がった。みなさんに心から感謝している。

10月1日(土)

パリのL’Alcazarで法政ミーティングin Parisを開催した。30名近くの方が参加して下さった。現地の企業に勤める方、文化事業関連の方、日本語教師、現地で会社をもっている方、そして留学中の現役学生も参加。日本を飛び出してパリでキャリアを拓きつつある女性二人は、法政女子高のOGだった。現地で数十年暮らしていて法政の卒業生に出会ったことがなかった方が、このような機会に出会い、新たなつながりをもつようになる。お互いの自己紹介によって意外な縁の発見もあった。仕事で、プライベートで、助け合う機会が増えることだろう。海外校友会の組織化はこのためにおこなっている。

昨年のベルギーやドイツでの集まりもそうだったが、日本での校友会の集まりと違う雰囲気がある。それはご家族が一緒に参加されることだ。お連れ合いだけでなく、子供たちも一緒だ。現地の方と結婚して間もない方、何十年もたっていてお子さんが成人なさっている方など、さまざまである。さらに、ご本人が来られなくて母上がいらっしゃった方もおられる。帰国しているフランス人留学生も来て下さった。たとえ一時期であっても、法政大学という場でさまざまなことを考え、体験し、そこから社会に出て行った方々が、新聞の掲示板に気づいて立ち寄ってみる。そこで、全く異なる世代の知らない者どうしが、新たに出会う。とても不思議な気がするが、それが学びの場だけでなく「自由という広場」としての大学なのである。社会でもう一度、いや何度も縁を作り出す働きを、大学はもっている。