「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。この俳句は、正岡子規(❶)が故郷の愛媛県松山から帰京する途中で奈良に滞在した際に詠んだものです。
法政大学図書館では、明治期の俳人・歌人として知られる子規の蔵書を所蔵しています。1902(明治35)年9月19日に34歳11カ月という短い人生を終えた子規でしたが、最後のすみかとなった東京根岸の「子規庵」はその後も子規を慕う弟子たちによって守り継がれました。その子規庵が空襲で全焼したのは1945年のこと。しかしながら、敷地内の土蔵は被害を免れ、中に保管されていた子規の蔵書が1949年に法政大学に寄贈されたのです。
当時総長を務めていた野上豊一郎の尽力の下、教養部の田村輝雄教授が子規庵のあるじである病床の寒川鼠骨を訪ね、「図書館の充実」を説いて寄贈の承諾を得たといいます。法政大学は川崎市の木月にあった予科の図書館を空襲で焼失し、新制大学として戦後を歩み始めるさなか、図書館の蔵書を充実させる必要があったのでしょう。当時教養部教員だった鼠骨の息子・寒川政光が仲介したともいわれています。
子規文庫は俳諧や漢詩、絵画関係や英文の書籍など計2,118点に及び、紀行文「しゃくられの記」の基になった書き込みのある『古著百種』や、晩年の子規が部屋の壁に貼り「病牀六尺」執筆の契機になったといわれる大津絵も含まれています。
東京大学予備門(のちの第一高等中学校)で学んだ頃の自筆ノートは計10冊残されています(❷)。地元の松山中学校を中退して上京した子規は「須田学舎」「共立学校」で学んだ後、試しに受験した東大予備門に合格しました。夏目漱石や南方熊楠と同級生となりましたが、幾何学の成績が振るわず、学年試験で落第。幾何学を担当した隈本有尚は英語でのみ講義をしていたようで、子規はそれが難しかったと後年回想しました。
写真❸には、太陽を一周する地球が描かれていたり、気象に関する記述があることから、「地文学」のノートであると考えられます。地文学もまた隈本が担当した科目で、ノートのところどころに英文が併記されていることが分かります。
子規文庫には学生時代に教科書として用いられた書籍類の他、一時は小説家を目指した子規が夢中になって読んだ坪内逍遥の『当世書生気質』や愛読書となったハーバート・スペンサーの著書など、子規の学生生活に触れることのできるさまざまな蔵書が含まれています。こうした蔵書の存在は、法政大学の戦後復興を後押しし、戦争の時代を経てキャンパスに集った教職員や学生たちを大いに励ましたことでしょう。
*正岡子規文庫の一部は法政大学図書館デジタルアーカイブで閲覧できます。
制作協力:法政大学 HOSEIミュージアム事務室
(初出:広報誌『HOSEI』2024年10・11月号)