2023年度

法律学校時代の卒業証書に刻まれた学びの記録

2023年度

1880年に「東京法学社」という名で創立された法政大学が初めて卒業生を送り出したのは、1885年9月のことです。それまで数百名の在学生がいましたが、第1回卒業生は8名でした。開校以降しばらく卒業生を輩出しなかったのは、情熱にあふれるも厳しい教師であった薩埵正邦(さったまさくに)の姿勢が理由とされていますが、在学中に代言人(現在でいう弁護士)試験に合格して卒業を待たずに開業した事例も多かったためといいます。

1889年に東京法学校と東京仏学校が合併して「和仏法律学校」と改称します。当時の卒業証書を見ると、その大きさに驚くでしょう(❶)。例えば、卒業後、弁護士となった多湖実(たごみのる)の卒業証書(1891年)は縦約46㎝×横約62㎝。紙面には校長だけでなく、教頭や講師たちの名前が手書きで記されています。1873年に来日したボアソナードは法典編纂事業に尽力する傍ら、東京法学校時代の1883年から教頭を務め、卒業証書には「仏国大学名誉教授・仏国法律大博士ボアソナード」の名前とともに、自身のサインと印鑑が添えられました(❷)。印鑑の文言「愛人而勿害人(人を愛して、人を害するなかれ)」は、他者を傷つけてはならず、他者の尊厳や所有権を尊重すること、そして人間の名誉の尊重を意味し、ボアソナードの人道主義的な思想を表します。

❶和仏法律学校時代の卒業証書❷卒業証書に記されたボアソナードのサインと印鑑(写真右)

講師の数は学校の発展とともに増え、中西由之助の卒業証書(1902年)では総勢47名の講師が名を連ねます(❸)。京都出身の中西はもともと「校外生」でした。これは諸事情で通学できない者に講義録を配布して学びの機会を提供する、現在の通信教育にあたる制度。中西は校外生の修業に飽き足らず、1899年に通学生として和仏法律学校に入学し、卒業と同時に故郷で弁護士を開業しました。入学時の校長だった梅謙次郎や富井政章は自らが起草した民法の講義を、関西大学の創立者でもある鶴見守義は刑法や刑事訴訟法を担当。後に総理大臣を務める若槻礼次郎や敗戦直後の憲法改正に携わる松本烝治の名前も見えます。法律学校時代の卒業証書から、学びを求めた若者とその熱意に応えた教員の姿が目に浮かびます(❹)。

  • ❸中西由之助の卒業証書

  • ❹九段上校舎前で撮影された卒業式後の記念写真(1905年)

*紹介した卒業証書は、2024年3月からHOSEIミュージアム・デジタルアーカイブにて新規公開を開始します。

HOSEIミュージアム ✖ 法政大学大原社会問題研究所
「社会を記録する」
2023年9月1日(金)~2024年4月27日(土)※期間中展示替えあり
HOSEIミュージアム ミュージアム・コア(九段北校舎1階)