2022年度

付属校に受け継がれた「法政大学予科」のシンボル〜能楽研究者・山崎楽堂〜

2022年度

法政大学高等学校および法政大学第二中学校・高等学校の校章は、もともと戦前の予科(現在の大学の教養課程)のバッジにあしらわれていたものです。これをデザインしたのは、予科で数学を担当していた山崎楽堂(本名・静太郎)でした。

山崎は1885(明治18)年、和歌山県和歌山市に生まれ、京都の第三高等学校を経て、東京帝国大学建築学科に進みました。元紀州藩士の父の影響で、幼時から能や狂言に親しみ、大学卒業後は梅若家能舞台や細川家能舞台などの設計に携わります。

能舞台は伝統芸能の演者が命を懸けて芸をする神聖な場所であり、その設計は山崎にとっても命懸けの仕事だったといいます。また、能楽研究者・評論家としても活躍し、学生時代には高浜虚子に俳句を学ぶなど、才気縦横の人物でした。

小鼓胴を手にする山崎楽堂(山崎有一郎/聞き手・三浦裕子『昭和能楽黄金期』檜書店)

小鼓胴を手にする山崎楽堂(山崎有一郎/聞き手・三浦裕子『昭和能楽黄金期』檜書店)

山崎が本学の予科教授に着任したのは1921年。当時の予科長は、能楽を通じて親交のあった野上豊一郎でした。山崎が着任して間もなく、予科の制服制帽が黒サージの詰襟学生服・丸帽に決まります。帽子に付けるバッジは、中央の白いHOSEIの「H」を金の王冠が囲むデザイン。当時、金モールのバッジはまだ珍しく、その「ハイカラ」さが予科生たちの自慢だったようです。

その後、松室致という偉大な学長を喪うと、大学の財政難をはじめとする複雑な要素が絡み合い、1933年に「法政騒動」といわれる学内抗争が起きます。ある一派が野上予科長の排斥を叫び、学生を巻き込んだ対立に発展したのです。山崎は予科教授会の代表を務め、野上擁護の連判状を作成し結束を固めました。大学の会議室が使えないため、浅草の梅若家能舞台に結集したこともあったようです。

この騒動は、山崎はじめ予科教員の半数に及ぶ47人の辞表提出が「赤穂浪士」に例えられるなど、新聞や雑誌で連日報道されました。取材に対して山崎はその行動を「正義の戦い」と述べ、自ら活動資金を負担して大学当局や反野上派と対峙たいじし、敢然と難局に当たります。

この騒動で辞職した教員の大半が後に復職する中、山崎は法政の教壇に戻ることなく、1944年に死去。1936年に川崎校地へ移転した予科は、戦後の教育改革を受けて廃止されましたが、山崎がデザインし、予科生に愛されたバッジは、本学付属校の校章として今に受け継がれています。

  • 法政騒動に際して、予科教授会代表の山崎の名で提出された声明(1934年1月9日)

  • 山崎のデザインを使ったバッジやメダル。右端が予科と同型のバッジ

取材協力:HOSEIミュージアム事務室 野上記念法政大学能楽研究所 檜書店 

(初出:広報誌『法政』2022年11・12月号)