2013年度

Vol.66 野上豊一郎博士の遺品

2013年12月05日

2013年度

今年10月7日(月)、本学元総長・野上豊一郎博士の生誕130年にちなんだシンポジウム「野上豊一郎の能楽研究を検証する」が、ボアソナード・タワー26階スカイホールで開催されました。
また、ボアソナード・タワー14階の博物館展示室では2014年1月16日(木)まで「野上豊一郎と弥生子展」が開催中です。

野上博士は、旧制第一高等学校在学中に夏目漱石に師事し、外国文学研究にいそしむ一方、高浜虚子に誘われて能楽に出会い大きな感銘を受けて以来、能の研究に傾倒します。東京帝国大学卒業の翌1909(明治42)年に本学講師となって以後、その後半生を能楽研究に捧げ、世界文学の一つとして能を捉えるという斬新な視点から多角的かつ広範な研究を行い、能楽の海外への紹介にも積極的に取り組みました。教授、理事などを経て1947(昭和22)年に総長に就任すると、専門的研究機関として文学部付属の能楽研究室を設置、関係資料の収集・調査にあたらせましたが、それらが未だ軌道に乗らない1950(昭和25)年に病没。博士の遺志は後任の大内兵衞総長らによって受け継がれ、52年に能楽研究室を拡充・独立させた野上記念法政大学能楽研究所が創設されたのです。

野上博士の肖像画

野上博士の肖像画

シンポジウムは、博士の幅広い能楽研究の中で最も知られる「シテ一人主義」の考え方を、今どう見直すべきかをテーマに、資料展示も行われました。ここに紹介するのは、展示されたものも含む野上博士の遺品です。これらは野上博士の没後、夫人で小説家として知られる野上弥生子(1885~1985)が存命の時から最近まで、数度にわたって遺族から寄贈されたもので、博士の能楽研究を知る上で貴重な資料が多く含まれています。

遺品には自筆の原稿が多数含まれている。原稿には推敲の跡が随所に見られる。下側の原稿には野上豊一郎の名前が読み取れる

遺品には自筆の原稿が多数含まれている。原稿には推敲の跡が随所に見られる。下側の原稿には野上豊一郎の名前が読み取れる

(左)本学勤続25年の記念に贈られた銀時計。蓋の裏にある手書きの時計の由来は、筆跡や「父さま」という言い方から野上弥生子が記したものと思われる。弥生子は法政大学女子高等学校名誉校長も務め、能楽研究所発足時には顧問にも加わっていた。「女性である前にまず人間であれ」の言葉を残している。(中)野上夫人・弥生子より寄贈された室町時代の金春流謡本『車屋謡本(くるまやうたいぼん)』。1 冊1番(曲)で計100番が10冊ずつ10箱に収められている。朝日古典全書「謡本集」(田中允校注、朝日新聞社1957)の底本になるなど

(左)本学勤続25年の記念に贈られた銀時計。蓋の裏にある手書きの時計の由来は、筆跡や「父さま」という言い方から野上弥生子が記したものと思われる。弥生子は法政大学女子高等学校名誉校長も務め、能楽研究所発足時には顧問にも加わっていた。「女性である前にまず人間であれ」の言葉を残している。(中)野上夫人・弥生子より寄贈された室町時代の金春流謡本『車屋謡本(くるまやうたいぼん)』。1 冊1番(曲)で計100番が10冊ずつ10箱に収められている。朝日古典全書「謡本集」(田中允校注、朝日新聞社1957)の底本になるなど

取材協力:野上記念法政大学能楽研究所長・教授 宮本圭造、同研究所兼担所員・文学部准教授 伊海孝充

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