2011年度

Vol.28 法政大学図書館 所蔵資料 正岡子規の自筆俳句~「しやくられの記」下巻の草稿~

2011年12月01日

2011年度

明治時代を代表する俳人・歌人で、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の主人公の一人である正岡子規(1867─1902)。その子規が所用していた蔵書が「子規文庫」として本学図書館に所蔵されています。
「子規文庫」は、子規が35年の短い生涯のうち病没までの10年間を過ごした東京・根岸の子規庵で子規の遺品を守り続けてきた寒川鼠骨(さむかわ・そこつ、1874─1954)を介し、1949(昭和24)年に本学に寄贈されました。鼠骨は同郷の子規に師事し、死の床にあった子規を看取った後、子規庵主となり第二次世界大戦の戦火から遺品や蔵書を守り抜きました。後に子規全集を3度にわたって編纂しています。
「子規文庫」は彼が最も力を入れた俳句の書物を中心に、2000点を超える和漢洋書からなり、学生時代の自筆ノートや、世界に3点しかない漢書も含まれています。

<俳句書き込みの判読>
番号は書き込みの順(右から)。○は「寒山落木」所収、・は同抹消、△は同じく類似句を示す。2、4、5、14は部分的に判読不可。
 
 1・名月や湖水の上に蓙ハなし
・3・名月や湖水の中に船一
 6・我舟ハ動かす水に月のかけ
△7・砕けてハ海一めんや月の影
 8・掬ふ手にひやり(ママ)としむや水の月
 9・名月の見具合
 10・見具合の幾度変るか松の月
△11・四方の火ハ消えて湖水に月一つ
 12・さゝ波に一々月のうつりけり
○13・名月は瀬田から膳所へ流れけり
・15・月高(ママ)しわか足下に(ママ)
より天に近江富士
 16・名月や一つにけふる海と山
 17・山一つとれか八景七小町
・ 18・我宿にはいりそう也月の出」いづる月

1981(昭和56)年、子規研究者の和田克司大阪成蹊女子短期大学名誉教授が「子規文庫」を調査した際、蔵書中の『古著百種』の裏表紙に紫色の色鉛筆で書かれた俳句が確認されました。和田教授によれば、これらは子規の俳句開眼以前の句で、1890(明治23)年8月27日に大津を訪ね、29日夕刻から小舟に乗って滋賀・辛崎へと月見に出かけた際に得た俳句を書き記したものといい、「いかにも創作熱の高まりを伝えるかのように、慌しく書き込まれている」と「『子規文庫』調査考」に記しています。
和田教授が判読した句を別掲しましたが、子規はこのときの月見の様子を夏目漱石に宛てた書簡に記し、7、8、3の句を添えています。
書き込みの句は紀行文「しやくられの記」下巻のもとになったもので、俳句稿本「寒山落木」の原資料であり、草稿が『古著百種』裏表紙の書き込みとして存在していることは、それまでまったく知られていなかったと和田教授は記しています。正岡子規研究のうえで貴重な資料であることは間違いないでしょう。

書き込みのうち12、13、14の部分を拡大したもの

書き込みのうち12、13、14の部分を拡大したもの

「しやくられの記」上巻に、「しやくるとは絲(いと)を手で断続的(ツヅケザマ)に引く事じや」とあり、第一高等中学校本科を卒業したばかりの子規が東京帝国大学入学直前、故郷の松山に帰省した際、久万山や大津などの名勝に〝しやくられ〟てした3度の旅行記が「しやくられの記」です。このとき子規23歳。結核で喀血し、自身を血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスにたとえて「子規」と号したのは、その前年のことでした。

  •  参考資料 和田克司「『子規文庫』調査考」(1991年6月刊、法政大学所蔵文庫案内/法政大学図書館編)
『古著百種』は縦186ミリ×横124ミリの冊子で、小説などをオムニバス形式で掲載したもの。子規文庫には第一号(写真左:刊行日付なし)、第二号(写真右:明治22年11月18日)の2冊があり、第一号の裏表紙に俳句の書き込みがある。「子規文庫」蔵書には、病床の子規を慰めるために坂本四方太が土産に持参し、有名な「病牀六尺」執筆の契機となった大津絵と、そのうちの藤娘を子規が写生した絵が自筆稿の中に残っている。

『古著百種』は縦186ミリ×横124ミリの冊子で、小説などをオムニバス形式で掲載したもの。子規文庫には第一号(写真左:刊行日付なし)、第二号(写真右:明治22年11月18日)の2冊があり、第一号の裏表紙に俳句の書き込みがある。「子規文庫」蔵書には、病床の子規を慰めるために坂本四方太が土産に持参し、有名な「病牀六尺」執筆の契機となった大津絵と、そのうちの藤娘を子規が写生した絵が自筆稿の中に残っている。

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