法政大学エピソード

東京法学社の設立者たち

法政大学エピソード

東京法学社の設立者たち~金丸鉄・伊藤修・薩埵(さった)正邦

法政大学の歴史は、1880年(明治13年)4月に設立された「東京法学社」に始まります。この年は、わが国の憲政史上に重要な地位を占める国会期成同盟が結成され、国会開設上願書が太政官に提出されるなど、自由民権運動の全国的な高揚期に当たっていました。法制史上でも、代言人(現在の弁護士にあたる)規制の改正や刑法・治罪法の公布など、近代的法制の整備が緒につきはじめた年でした。
東京法学社は、このような時代背景の中で、にわかに高まりはじめた代言業務と法学教育の必要に応えるため、フランス法学の流れをくむ金丸鉄、伊藤修、薩埵(さつた)正邦らの法律家によって、東京神田・駿河台北甲賀町に設立されました。

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金丸鉄(かなまる・まがね)1852~1909

1852年(嘉永5年)豊後国杵築藩士の家に生まれ、19歳で上京、独力で出版社時習社を興し、日本最初の法律専門誌のひとつ『法律雑誌』を創刊しました。
この頃、郷里の先輩で浅草に法学塾・法律学舎を開いていた元田直と親交を結び、同時に青年法律学徒の薩埵正邦と知り合いました。明治13年、元田の助力を得て、元田のもとにいた代言人・伊藤修とともに東京法学社を創設し、ほどなく薩埵もこれに参加しました。

伊藤修(いとう・おさむ)1855~1920

金丸と同じ豊後国杵築藩士で、1877年(明治10年)に代言人となり、元田直の事務所で訴訟業務に従事していました。
1880年(明治13年)、金丸、薩埵とともに東京法学社創立に参画しました。それ以外の記録は残っておらず、創立後まもなく、法学社との関係を絶ったものと思われます。

薩埵正邦(さった・まさくに)1856~1897

1856年(安政3年)、京都の石門心学の家に生まれ、明治4年、15歳で京都仏学校に入学。フランス人教師レオン・デュリーに仏語を学びました。明治8 年、デュリーが東京開成学校(東大の前身)の教師に転じたため、彼も恩師に従って上京、独学で法律を学びました。仏法学者の桜井能監に認められ、明治11 年に内務省雇となりました。
翌年、法典編纂のため日本政府に招かれていた司法省法学校教師ボアソナード博士に接し、博士の推薦で、司法省雇、民法編纂局勤務となり、彼から直接の指導を受けました。明治13年東京法学社を金丸鉄・伊藤修らと設立。翌14年、東京法学校の独立後その主幹となり、学校経営に精魂をかたむけました。

顕彰碑の設立

1993年4月10日、113回目の創立記念日に、大分県杵築市の城山公園で、顕彰碑の除幕式が行われました。
金丸鉄と伊藤修は、本学の前身である東京法学社を1880年に設立し、ともに杵築藩士(現 大分県杵築市)の士族の出身でした。
顕彰碑は本学卒業生の山本栄一氏の設計による2.7メートルの三角柱の黒みかげ石製で、城山公園の海を眺望できる場所に建っています。台座には方位盤モニュメントが設置され、二人が夢を抱いて向かった北の方角を指しています。その下には白と黒の石が敷き詰められ、白い石は創立から現在に至るまでの歴史を表わし、黒い石は今後の本学への期待が込められているということです。

法政大学創立者(金丸・伊藤)顕彰碑(大分県杵築市城山公園)