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新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。法政大学にようこそ。大学を代表して心よりみなさんを歓迎致します。新入生のご家族のみなさんにも、お祝い申し上げます。
みなさんは今日から、法政大学の一員として学生生活をスタートすることになります。その門出にあたって、大学で学ぶこと、あるいは大学院で学ぶことについて、意識してほしいことについて述べ、歓迎の挨拶にしたいと思います。
社会や自然の環境が、いま速いスピードで変化しつつあります。日々の生活の中で、それを実感する機会がしばしばあるのではないでしょうか。これまで経験したことがないような、極端な気候現象が日常化しつつあります。新しい感染症のパンデミックの発生により、これまで経験したことがないような社会活動の制約の中で暮らすことを世界中の人々が強いられました。良い方向への変化もあります。法政大学のほとんどの場所でWiFiへのアクセスが提供されており、それを通して高度なAIを誰でも無料で使えます。
新入生の中で、最も若い人たちの多くは、約12年前に初等教育を受け始めたはずです。今あげたような新しい現象は、その当時はほとんど存在していませんでした。気候の変動については、徐々に変化してきているものですが、社会環境の変化は突然発生するものも少なくありません。これから大学生活を4年間過ごす間にも新しい変化が生じるでしょう。学部の新入生が大学院に進学し、博士学位を取得するなら、最短で9年かかります。現在と9年後の世界との間には、またさらに大きな変化が生じるはずです。
こんな風に急速に変化していく時代だから、学校で習う知識はすぐに陳腐化してしまい役に立たなくなる、という人がいます。この指摘には当たっている面と、そうでない面があります。当たっている面があるということは、これからみなさんが大学や大学院で学ぶことに、あまり価値がないということを意味しているのでしょうか?
まず、これまで身に付けてきたことについて不安に思う必要はありません。最近のさまざまな変化にもかかわらず、みなさんが初等、中等教育で修得してきた知識や技能は、今でもそんなに古くなっていませんし、これからも相当な長期間にわたってその意義は失われないでしょう。初等、中等教育で身に付けることが期待されているのは、基礎的な知識や技能であり、それは社会環境、自然環境の変化によって簡単に陳腐化するようなものではないからです。また大学で身に付ける知識やスキルの中にも、すぐには陳腐化しないものがたくさんあります。たとえば大学で身に付ける外国語は、何十年経っても通用し続けます。
しかし、これからみなさんが大学や大学院で学んでいく知識や技能の中には、比較的短い期間で陳腐化するものがあることも事実です。専門の最先端の授業が扱うような知識の中には、それほど賞味期限が長くないものが多く含まれています。先にあげた指摘が「当たっている面がある」というのは、そういう意味においてです。
大学は、教育と研究の両方を行う場所です。研究というのは、知のフロンティアを開拓していく活動です。これまで未知であったことを既知に変えていくことや、これまで大雑把に曖昧にしか解明されていなかったことを、より明細に明らかにしていくことを意味しています。大学で学ぶことの重要な要素は、その最先端の研究の現場に触れながら学んでいくことです。専攻によっては学生もまた、研究の一翼を担い、フロンティアを開拓する主体になります。そういう経験を通して初めて得られることがあり、それが大学で学ぶことの重要な価値のひとつなのです。
研究が進むにつれて既知と未知の境界線は、少しずつ動いて行き、大雑把な知識は明細な知識によって上書きされていきます。最先端の知識は、やがて陳腐化し、新たな知識に置き換えられ、その知識もまたいずれ将来陳腐化していく運命なのです。大学の卒業論文、卒業研究や、大学院の学位論文などは、そんな活動の一環として取り組まれるものです。つまり、大学で学ぶことは、それ自体が、直前までの最先端の知識を陳腐化させるという性質をもっているのです。したがって、みなさんはこれから、かつて先輩たちが最先端の知識として学んできたことを、陳腐化させる張本人となっていくのです。
いま「張本人になる」と表現しました。ここが大事なポイントです。初等教育、中等教育で身に付けてきた知識や技能のほとんどは、みなさんにとって「教えてもらう」ものであり、その知識や技能をつくりあげた主体はみなさんではありません。長年の歴史の中で積み上げられてきたものを、みなさんは受け取る立場でした。大学、大学院での学びはそれだけにとどまりません。既存の知識や技能を陳腐化させる主体に、みなさんはなるのです。もちろん、みなさん一人一人が生み出せる新しい知識は、ごく狭い範囲の、少しだけの新しさをもつものに過ぎないことが普通です。その少しの新しさも、次の瞬間には誰か別の人によって陳腐化されてしまうかも知れません。
でも、それで構わないのです。知のフロンティアに本人として立つという経験を一度でもすること自体に大きな意義があるのだと私は考えます。人類の知の体系全体のフロンティアに当事者として立つことができる人は一人もいません。どんな著名な学者も、フロンティアの小さな一部に立って、それを少しだけ動かすことに取り組んでいるのです。それと本質的には同じ活動を、一度でも自分ごととして経験する。大学で学ぶというのは、そんな機会を得るということを意味しています。そこで得られる知識それ自体にも意味はありますが、それは第二義的な意味に過ぎません。そこで得た知識がそう遠くない将来に陳腐化してしまったとしても、自分自身がフロンティアに主体として立ったことがあるという経験の価値に比べれば、失われる価値は大したことではないのです。
さて、ここまで述べてきたことは、法政大学に限らずおよそ大学で学ぶということにはこういう意義があるという話です。では、特にここ法政大学で学ぶということには、どういう意義や特徴があるのでしょうか。
法政大学には憲章があります。そのタイトルは「自由を生き抜く実践知」です。社会の様々な場所で、色々な課題を何とか解決しようと取り組まれている活動の中で、新たな知識が得られ、社会の課題と知識を結びつけて、何らかの成果をあげていくことが目指されています。知のフロンティアは大学だけで開拓がされているわけではないのです。そしてほとんどのみなさんは、法政大学を巣立ったあと、社会の様々な場所で、知のフロンティアを広げる活動に従事していくことになります。現場にはさまざまな制約条件があり、いろいろなものの見方をする人々がいます。そのなかに在って、特定の偏見に拘束されてしまうことなく、制約条件にただ負けてしまうこともなく、何とかして解決に結びつく取り組みを展開できたときに初めて、成果は得られます。そして、制約から自由であるためには知恵が必要です。それが「自由を生き抜く実践知」です。
法政大学での教育研究活動は、その根底に、大学憲章の理念を据えて行われています。その活動に携わることによって、みなさんも「自由を生き抜く実践知」を身に付けていくことができるのです。そして、大学で身に付けた知識が将来陳腐化したとしても「自由を生き抜く実践知」はみなさんの財産であり続けます。
みなさんの学生生活が実り多きものとなることを期待しています。