PickUP

2021年9月卒業・学位記交付式 総長告辞

  • 2021年09月11日
PickUP

→ English

本日お集まりの卒業生、修了生のみなさん、おめでとうございます。オンラインでご参加のご家族の皆さんにもお祝い申し上げます。

みなさんの学生生活は、前半はコロナ禍が起こる前、後半はコロナ禍のさなかとなりました。入学したときに思い描いていたのとは、この1年半の学生生活はかなり違っていたことと思います。おそらく今後、みなさんのように、コロナ前の学生生活からコロナ下での学生生活への転換を学生として経験したひとたちを「コロナ世代」と呼ぶようになるのではないかと思います。

コロナ前の学生生活と、コロナ下での学生生活の両方を学生として経験した世代は、実のところ多くありません。昨年春までに卒業、修了をした学年の人たちはコロナ下の学生生活を経験していませんし、現在の1,2年生はコロナ前の学生生活を経験していません。現在の感染状況や、変異ウィルスについての情報などを踏まえると、コロナ前のような学生生活が本格的に戻ってくるのはまだもう暫く時間がかかるように思います。また、コロナ禍に迫られて急遽社会に広がったオンラインなどの手段は、コロナ後の社会においても、ある程度定着していくことが想定されます。大学も同様で、現在の2年生以下の学年の人たちが将来経験する学生生活は、いずれにしてもコロナ前の学生生活とは違ったものになるだろうということになります。みなさんはコロナ前の学生生活を実際に経験した最後の世代ということになるわけです。この両方を実体験としてもっていることは、みなさんの世代の特長であって、自身で思っている以上に、その経験は貴重なものなのです。自分では気付いていないことを意識しろ、というのは難しい話なのですが、今後上や下の世代の人とコミュニケーションを取るにあたって、自分たちには何が独自のものとしてあるだろうか、という問いを持ち続けることをぜひ意識してください。その貴重さを「言い訳」ではなく「武器」にできるようになったとき、みなさんらしい歩みの道がひらけることと思います。

さて、学生生活の途中でコロナ禍に遭遇することとなったみなさんは、おそらく、学生生活でやり残したことがたくさんあるのではないでしょうか。学生の間にこんなことをしよう、これをなしとげたいという期待がいろいろとあったことと思いますが、その中で、達成できなかったことが少なくないと思います。例えば留学を目指していて、派遣留学にも内定していたのに、断念せざるを得なかった学生が、何人もいます。もっと気軽に、たとえば卒業旅行についても、本来ならこんな国に行って、こういうことを見てきたかった、というような期待がほとんど実現できずに終わっているのではないかと思います。

その「やり残したこと」をぜひ大事にしてください、というのが、今日、みなさんが大学を巣立って行かれる節目において、私からのお願いです。

学生時代に成し遂げたことに自信をもってこれから歩んでください、というような餞の言葉ではなく、やり残したことを忘れずに抱えていってください、というのは、卒業、修了にあたっての送る言葉としては、違和感を覚える人もいるかも知れません。不幸にして学生時代にコロナ禍に遭遇してしまった世代に対する慰めの言葉、と響いてしまうかも知れません。実際慰めの意味がまったくないかといったら、正直にいえば、多少はあります。ただ、忘れて欲しくないのは、不幸にしてコロナ禍に遭遇してしまったというのは、みなさんだけではない、ということです。

みなさんの少し先輩の学年には、社会人として出発しようとしたところでコロナ禍に遭遇して、入社式もなく、オンライン研修が続いて同期と実際に顔を会わせる機会もなく、配属された職場でもリモートワークが続いているという人もいます。海外事務所に駐在していて、急遽撤収する作業を担当することになった人もいます。公務員として感染防止策やワクチン接種の手配に忙殺されている人もいます。本学の創立者の一人であり、このホールの名前の由来にもなっている薩埵正邦さんの曾孫の方は、本学への支援者でもあるのですが、東京都の保健所にお勤めで、今年の3月に定年で退職される直前の1年間はコロナ対策で忙殺されたと仰っていました。それぞれの年代、それぞれの場所で、コロナ禍は人々の生活に大きな影響を与えています。なぜ、自分がここにいるときにこんな事態が起こったのだろうか、と嘆きたくなる瞬間は、誰にでも、何かしらあったのが、この1年半という期間であったと思います。学生生活の後半というタイミングで遭遇したみなさんそれぞれも、その中の一人、ということです。

また、少し違った観点からは、学生生活でやり残したことがあるのは、コロナ禍に遭遇した学年に限らないということも言えます。学生生活で思い描いていたこと、実現したいと思っていたことのすべてを実現して卒業、修了する学生など、そもそも存在しません。実現できなかった理由は様々だろうと思います。自分の努力が足りなかったということもあるでしょうし、自分ではどうすることもできない事情によってできなかったこともあるでしょう。いずれにしても、卒業、修了の後、そのやり残したことを学生時代の思い出に留めてしまえば、おそらくは生涯実現することなく終わるでしょうし、いつか機会をつくって何とか実現するのだ、という姿勢を失わなければ、いくつかは将来実現できるかも知れません。実際には、もっと偶発的な、悪く言えば行き当たりばったりの展開の末に、たまたまある目標が実現するというようなこともあるかも知れません。そして、やり残したことすべてを今後の人生で実現することも、おそらくはないのが現実です。しかし、より多く実現し、自分のやりたかったことをある程度成し遂げる人生と、そうではない人生の違いはあると思います。

今年の秋、越冬隊長として南極に向けて出発する予定の先生が法政大学にいらっしゃいます。社会学部の澤柿先生ですが、先日対談をする機会がありました。澤柿先生はこの越冬隊参加で、南極に行くことが4回目になるそうです。これだけの回数南極に行く機会を得られる人は、珍しいのだそうです。先生は「自分は偶々、長年にわたって南極に行く条件が整う場にいることができて幸運だった」と言っておられましたが、対談で伺った話からは、南極探検に強く憧れをもった高校時代から、大学進学、部活の選択、大学院への進学と専門の選択、職場の選択といった人生のさまざまな場面で、いつも何処かに「南極に行くこと」が先生の念頭にあって、何かを選択する時にそれも必ず大事なことのひとつとして意識されてきた結果、長年にわたって南極に行くことができる条件を確保し続けられているように受け止められました。

多くの人が実現できるわけではない困難な目標を現実にするためには、そういう選択の集積が必須なのだと感じました。

みなさんそれぞれの今後の目標の中に、ぜひ、学生生活でやり残したことのうち、自分にとって大事なものいくつか、少なくとも一番大事な一つをいつも忘れずにとっておいてください。四六時中そのことばかり考えている必要もないと思いますし、そもそもそんなことはできないものです。しかし、何か人生の選択をする場面になったとき、一貫してそのことを判断材料のひとつに置き続け、それを踏まえた行動を重ねていけば、いつか将来、それが何らかの形で現実のものとなると信じます。

法政大学憲章のタイトルはみなさん良くご存知のように「自由を生き抜く実践知」です。自分が実現したいことを達成するという自己実現は、ここでいう自由の重要な一部として位置づくものです。目標に漠然と憧れを抱いているだけではそれを達成することはできない。それを「生き抜」いて現実化していくための知恵を持つことが不可欠だ、というメッセージがここには含まれています。コロナ前の学生生活からコロナ下での学生生活への転換を経験し、その急激な変化に自分なりに対応して、何とか学生生活を完結させたことを自分の財産として、そして、そこから何らかの「実践知」を受け取って大事にしてください。それによって、いまはいったん節目を迎える学生生活のなかでやり残したことのうち、自分自身にとって大事なものをいつか必ず手にしてください。その前途におけるみなさんの研鑽と幸運を祈り、祝辞と致します。