お知らせ

「ごはん食べてる?」という問いから始まるダイアローグ(人間環境学部人間環境学科 湯澤 規子 教授)

  • 2020年09月24日
お知らせ

2019年度に受賞・表彰を受けた教員の研究や受賞内容を紹介します。

湯澤規子教授は、「第19回(2019年)人文地理学会学会賞「学術図書部門」」(人文地理学会)、「第12回(2019年度)生協総研賞「研究賞」」(公益財団法人生協総合研究所)を受賞しました。

  • 著書『胃袋の近代ー食と人びとの日常史ー』(名古屋大学出版会、2018年)

「ごはん食べてる?」

『きのう何食べた?』(よしながふみ、モーニングコミックス)という漫画やドラマが話題になりましたが、私はしばしば講義で学生たちに、「ごはん食べてる?」と聞いています。この問いかけには不思議な力があって、教室はとたんに和やかになり、学生たちは急に親しげに話し始めます。誰とどこで何を食べたのか、という会話に始まり、「悩んでいた時に母が一緒にチーズケーキを作ろうと誘ってくれて、材料をぐるぐる混ぜているうちに悩みも溶けてしまったんです」、「給食で苦手な茄子を食べる苦労を一緒に味わった友達とは、今でも地元でメシを食いに行く付き合いが続いています」といった具体的なエピソードへと展開していきます。こうした学生同士の対話ダイアローグは、私が担当している「食と農の環境学」という講義を、自分自身の問題として引き受け、読み換えさせる力を持っているようです。

胃袋から考える社会

楽しいエピソードばかりではありません。「ごはん食べてる?」と問いかけて初めて、アルバイト先の賄まかないが「頼みの綱」であることや、目に見える服装ではなく食事で生活費を節約しているなど、学生たちの日々の苦労を知ることにもなりました。「ただ毎日の“普通の食事”に誰一人困らない姿が見たい」。これは「未来のひと皿」という課題を出した時に、学生から提出された印象深い言葉です。食をめぐる問題は今や、遠く離れたどこかの問題としてあるのではなく、むしろ「私たちの問題でもある」と学生たちは認識し始めています。彼らと対話する中で、私はそうした状況にこそ目を向けて、現代社会を考えなければならないと切に思うようになりました。

生きている以上、日々食べる、ということは止むことがありません。そして、どんなに豊かな社会になろうとも、何らかの事情で食べることが困難になる事態は、誰にでも起こりうることでもあります。しかし、胃袋が空っぽになっている状態、つまり「空腹」は目には見えにくいものです。ですから、「胃袋」から社会を考えるということはつまり、日常のはざまに潜む、見えにくい問題を凝視し、タテマエではなくホンネの世界へと踏み込んでいこうとする試みともいえます。

また、その一方で、現代社会は「食べもの」をモノとしてのみ認識する場面も多くなりました。栄養、成分、機能性、値段など、個人が摂取する「タベモノ」についての情報が世の中には溢れています。そうした中で、食べものが様々なコトとつながる「物語」を持っているという側面は、忘れられていくようにも感じていました。そこで、「食物語たべものがたり」という言葉をつくって、社会全体でそれを共有していく仕組みを作れないかと考えているところです。

日々の断片を集めて書く

現在や未来を見通すために、過去の出来事や社会を「胃袋」から考えることはできないだろうか?このシンプルな動機から、書き始めたのが本書でした。

起床してから朝ごはんを作るまでの15分間、ほぼ毎日少しずつ、今日は講義で何を話そうか、とそのトピックを書き留めていきました。テーマが「胃袋」ですから、内容自体が過去の人びとの知られざる「日々の断片」を集めて書く、という作業でしたが、私にとっては、家事と育児と仕事が混沌と混ざり合う日々の時間の断片を拾い集めて言葉を綴る作業でもありました。

依頼された原稿でもなく、学会に発表する成果でもなく、今、学生たちに話してみたいことを率直に、自由に書いていくプロセスが、こんなに楽しいものだとは知りませんでした。それはまた、忙しさに紛れて忘れかけていた、何かを「知りたい」「伝えたい」と思って探究していくことの何にも代えがたい喜びを、初心にかえって思い出すきっかけにもなりました。

食のモノローグからダイアローグへ

「食べること」はあまりにも日常の出来事であるがゆえに「記録」に残されることは少なく、研究の題材には不向きだと考えられてきました。しかし、「記憶」には鮮明に残っていることが多くあります。その「記憶」の断片をつなぎ合わせ、照らし合わせることで、今まで見過ごされてきた何かを取り戻すことができるかもしれない。そう考え続けた先に見えてきたのは、私たちが人間として「生きること」の根本には、冒頭に掲げた「ごはん食べてる?」という問いかけに象徴される、「他者の胃袋を気遣う行為」が、様々なかたちで絶えることなく続けられてきたということでした。

このたび、拙著『胃袋の近代』(名古屋大学出版会、2018)に、生協総研賞(研究賞)と人文地理学会学会賞(学術図書部門)が授与されたことは、学生たちに気づかされた問題に対する私自身の独りモノ言ローグが、彼らとの対話ダイアローグへと昇華したことへの評価にほかなりません。眼前に広がる声なき日常に耳を澄ませ、そのはざまに目を凝らす意味を、これからも学生たちと考え続けたいと思っています。

胃袋から社会を考えた2冊の拙著

法政大学人間環境学部人間環境学科

湯澤 規子 教授(Yuzawa Noriko)

筑波大学大学院歴史・人類学研究科単位取得満期退学。博士(文学)。明治大学経営学部専任講師、筑波大学生命環境系准教授を経て、現職。主な著書に『在来産業と家族の地域史』(古今書院、経済地理学会著作賞、地理空間学会学術賞、日本農業史学会学会賞)、『胃袋の近代』(名古屋大学出版会)、『7袋のポテトチップス』(晶文社)、近刊に『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(ちくま新書)などがある。

  • 所属・役職は、記事掲載時点の情報です。