お知らせ

2022年秋季入学式 総長式辞

  • 2022年09月10日
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新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。法政大学にようこそ。大学を代表して心よりみなさんを歓迎致します。オンラインで参加されている新入生のご家族のみなさんにも、お祝い申し上げます。

さて、みなさんは新型コロナウイルス感染症のパンデミックの2年半余りを経験した上で、いま法政大学での学びをスタートさせようとしています。パンデミックという言葉は、感染症の世界的な大流行を意味しています。流行の度合いは場所や時期で違いがあり、その時々の学校や、政府の対応、社会生活のあり方も変化しながら今日に至っています。しかし、パンデミックが発生する前と今とでは、世界中のあらゆる場所で、社会や経済のあり方が急激に大きく変化しました。その点では、世界のどこでも「同じ経験をした」と言えるでしょう。新入生のみなさんそれぞれが、この2年半をどこで、どの学年において過ごしてきたかは多様だと思いますが、世界中を呑み込んだひとつの現象に、それぞれが何らかの対応をして今日に至っているという点で、みなさんは共通の経験をしているのです。秋季入学生は、海外からの留学生も多く、人数は多くありませんが、例年きわめて多様な構成になることを特徴としています。出身国や言語、文化的背景の異なる人たちが、法政大学という同じ学びの場を共有し、これから互いに知り合い、交流し、さまざまな活動をともにしていくことになります。その時に、全員が大きな共通体験を持っているというのが、コロナ禍が始まってからの入学生ならではの特性です。

もちろん、その共通体験は、具体的な詳細においては、大きく違っているはずです。例えば、いま街中を歩いている人がマスクを着けている割合は国によって大きく異なります。逆に、パンデミックが始まったころの社会の反応も大きく違っていました。罰則つきの厳しい行動制限を課した国もあれば、法的拘束力のない協力要請に頼った国もありました。それに対して、人々がどの程度従うかも国によって大きく違っていました。当初は厳しかったけれども、今ではほとんど制限がないように暮らしている国もあれば、もともと何となく行動は抑えるけれども法的な拘束力はなく、逆に今になっても拘束はなくても多くの人は抑制的に行動している国もあります。こうした違いを知ることは、いろいろなことを考える機会を与えてくれます。

法政大学で出会うことのできる人たちは世界の多様な地域から集まってきていて、この2年半の経験の範囲は、とても幅広く、多様です。もちろん、2万7千人をこえるその全員と知り合うことはできないでしょう。しかし、新入生のほとんどの人にとって、法政大学に入学する前に比べて、より幅広い多様な仲間と出会える機会がここにはあります。まずは、法政大学に来て初めて出会った仲間と、この2年半の互いの経験を共有してみてはどうでしょうか。その違いに驚くことが、きっとたくさんあるはずです。そして、どうしてそんな違いが生じるのだろうと考えてみたうえで、自分なりのその考えを交換してみてください。何がこうした違いを生んだのかという問いに対して単純明快な回答はないと思います。一人で考えていると、自分なりに「これが一番の理由だろう」と納得してしまうこともあると思いますが、おそらくその回答には、まだまだ見落としている重要なポイントがある可能性が高いと思います。違った背景をもつ、多様な仲間たちとの交流を通して、自分の考えの及ばなかったことに出会うことができます。そういう発見の機会が豊富にあることが、法政大学という場で学ぶことの大きなメリットだと思います。

ところで、この2年半のなかで「一体誰の言うことを信じれば良いのか分からない」と思う瞬間はなかったでしょうか。あるいは、この専門家の言うことは信じられるのに、別の専門家は信用ならないと思えてしまう、というようなことがなかったでしょうか。世界中のかなり大勢の人々が今、そういう風に感じているのではないかと私は思います。大学というのは、何らかの専門を学ぶ場です。大学で学ぶことは、決して特定の専門を身に付けることだけにとどまるものではありませんが、何らかの専門を学ぶという要素がなければ、それは大学教育とは言えません。ところがいま、社会の中で、いわゆる専門家というものの発するメッセージに対して、深刻な不信感が広がっているのです。そんな状況のもとで、何らかの専門を学ぶことには、どんな意味があるのでしょうか。また、こういう状況だからこそ、どんな風に専門を学ばなければならないのでしょうか。

専門家というのは必ず、ある特定の分野の専門家です。それに対して今起こっているパンデミックという現象は、世の中のさまざまな領域に影響を及ぼしており、求められる対応についても、特定の専門分野だけから立案し、判断できるものではありません。一つの政策を、複数の専門領域から検討する必要がありますが、依って立つ専門領域によって同じ政策に対する評価が180度違ってくることも珍しくありません。それを何度も目にしてきたからこそ、いま私たちは、専門家という人たちをあまり信じられないように感じているのです。また、すべての政策は何らかの制約のもとで選択され、実行されていくものですから、特定の政策をめぐっての主張や説明については、どんな政策についてであっても、何らかの意味で不十分なものでしかあり得ないのが宿命です。対応策のために使うことができる財源や、動員できる人手は無限ではありません。財源や人手が足りないから、何か妥協せざるを得ない。それを「人手がどうしても足りないので不十分だけれども今はこれしかできません」と説明する人もいれば、制約についての言い訳をしても分かりにくくなりがちで、人々の納得と協力を得るためには逆効果だから、あえて単純化して不十分だけれどもやむを得ない政策を、ベストのものであるかのように説明をする人もいます。情報化社会の現代では、その両面が見えてしまいます。

こういうことが、時々刻々と変化してくる感染状況を受けて、2年半にわたって続いてきました。人は、ある状況が長く続くと、それに慣れてしまうこともあります。自分の健康や生活の充実にとって、直接影響があるようなことがらなのに、かわり映えがしない事態にうんざりして、関心を失ってしまったり、自分にとって都合の良い情報だけを積極的に受け取って、それ以外の情報を見なかったことにしてしまったりしがちです。パンデミックの長期化は、いま、そういう状況を生み出しているかも知れません。

大学で学ぶことの柱は何らかの専門を身に付けることだと先ほど述べました。専門を身に付けるということは、これまで知らなかった知識を得ることだ、と認識している人は多いと思います。それは決して間違いではありませんが、ちょっとミスリーディングな面ももっています。私は、専門を身に付けるということは、「分かっていることと分かっていないことの間に、正確に線を引く方法を身に付けること」だと考えています。そして、その結果として「分かっていること」の範囲が思っていたよりも狭いのだということを発見する。自分がそれまで思っていたよりもずっと多くのことを、人類は「知らない」、「分からない」のだということを知っていくことになります。それを事実として受け止めながら、その中から少しでも何かを解明するという作業に取り組んでいくことが学問なのです。そして、同じ学問分野の中にあっても、どこに、どんな方法で線を引くことが大事なのかについての判断は多様です。いわゆる専門家の発言や、互いに矛盾したり対立したりする理由も、根本的にはその違いにあります。そして、その違いがなぜ生じるのだろう、と考えをめぐらせることができるようになることも、専門を身に付けることの効果といえるでしょう。その意味では、専門を身に付けることの意義は、その限界と表裏一体だということもできます。みなさんは、これから、それぞれの選んだ専門を学んでいくことを通して、こうした認識を深めていくことができるようになるはずです。それは、専門というものへの不信を抱かざるを得ない現代社会に生きていく上で、大きな力になるものと私は信じます。

このように、大学生活には、これまで知り合うことがなかったような仲間との出会いと交流の機会が待っており、そんなコミュニティのなかで、それぞれが選んだ専門について深い学びの機会が用意されています。これから始まるみなさんの学生生活が、数多くの仲間との出会いや、豊かな学問的な発見に満ちた日々になることを期待して、歓迎の挨拶とします。