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法政大学では、これからの社会・世界のフロントランナーたる、魅力的で刺激的な研究が日々生み出されています。
本シリーズは、そんな法政ブランドの研究ストーリーを、記事や動画でお伝えしていきます。
2020年4月、コロナ禍のなか法政大学社会学部教授に着任しました。文化社会学・都市社会学・地域社会学・メディア論などを主な研究テーマにしています。
2019年4月に、都市社会学の視点から滋賀県長浜市で毎年4月に開催される「長浜曳山祭(ながはまひきやままつり)」およびその祭りを支える地方都市の社会構造について考察した学術書『コモンズとしての都市祭礼―長浜曳山祭の都市社会学』(新曜社)が刊行されました(写真1)。2019年度は地域社会学会より第13回地域社会学会賞(個人著書部門)を、2020年度は公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所より第46回藤田賞を受賞しました。また、本書のもとになった博士論文は、日本生活学会より第5回日本生活学会博士論文賞をいただきました。これらは、前任校の滋賀県立大学で取り組んだ研究成果の一つです。
はじめに、タイトルにもある「コモンズ」とは何か、という点について説明する必要があるかと思います。コモンズ論では資源そのものに着目することもありますが、本研究ではコモンズを、資源をステークホルダーから調達し、そこから希少性を持つ用益を生み出してステークホルダーに配分することで再び資源を調達するというサイクルを継承していくという、資源と用益の「管理の仕組み」と定義づけています。そのうえで「長浜曳山祭」における「コモンズ」としてのあり方、言い換えれば、歴史ある祭りが現代において世代を越えて今日まで継承されているメカニズムを明らかにしています。
では、長浜曳山祭における「希少性」を持つ用益とは何か。それは、町内に暮らす家にとっての「名誉や威信」です。例えば自分の家の子供が「子ども歌舞伎」(写真2)の役者に選ばれることなどが挙げられます。毎年数人の子供たちが役者として選ばれ、さらに主役やヒロインを演じられるのはその中のさらに1人、2人でしかない。ではどこの家の子にそれを演じてもらうのかといったように、希少な名誉をうまい具合に配分しなければなりません。
そもそも祭りを行って名誉や威信を町内の各家に配分するためには、多くのヒトやモノ、カネ、技能といった資源が必要です。具体的に言うと、「曳山」と呼ばれる舞台が付いた山車を整え(写真3)、「シャギリ」と呼ばれる囃子の担い手を育成し(写真4)、役者たちの振付を指導する歌舞伎の専門家にも来ていただく必要があります。そうしたことをしようとすれば当然資金も人手が必要で、それらは町内の各家に負担してもらわなければなりません。そうした資源をすべて適切に調達し、それを通じて名誉や威信といった用益を適切に生み出し、配分していくのです。そして名誉・威信がいつかは自分の家に回ってくると思っているからこそ、町内の人は、お金も人手も提供するわけです。
戦後、中心市街地が衰退して資金の工面が大変になったり、少子高齢化が進んで人手が少なくなったりといった状況の中で、こうした資源の不足が顕著になりました。そうなってくると、町内の外部も含めて資源を調達する先が必要となり、そのためには町内に対するのとは違った用益を生み出し、配分しなければならない。それは例えば行政に祭りを観光資源として活用してもらう代わりに補助金を出してもらう、ボランティアに参加する市民に対して祭りに参加する楽しみを提供する、祭りを小中学校の郷土教育の材料に提供してもらう一方で生徒が祭りに参加できるように公休扱いをお願いするといったことが始まります。このようにして地域社会の中にさまざまなネットワークを広げ、資源の調達と用益の生産・配分のサイクルをいかにうまく管理するかが、この祭りに関わる人たちには問われているのです。
この研究を行うにあたり、私は2012年、13組ある山組の1つに若衆として加入し、子ども役者の世話をする役者方や笛を演奏する囃子方として、実際に長浜曳山祭に関わりながら、祭礼についてフィールドワークをしてきました(写真5)。その結果、この都市祭礼を「コモンズ」と捉えることで、祭りを通してつくり上げられている地方都市の構造を明らかにできたと考えています。
フィールドワークから見えてきたこととして、希少な名誉や威信を配分し合う過程においては、名誉・威信の配分をめぐって毎回激しいコンフリクト(衝突、対立)が起こり、それが祭りを継承するうえでとても重要であるということでした。中には江戸時代やそれ以前から先祖代々、長浜に住んでいるという家さえあります。そうした歴史のある家はその頃からずっと膨大なお金や人手、時間をかけてきたことになるので、当然それに対する見返り、例えば役者に息子が選ばれるといった名誉があってしかるべきではないかと期待します。
男性はまだ祭りの中でいろいろな行事に参加し、若衆同士でお酒を飲む楽しみもありますけれど、祭りを裏で支える母親たちにとっては、自分の息子が役者になることだけが最大の晴れ舞台になるわけです。ですから「なんでうちの子選んでくれんねん。うちは200年祭りしちょるぞ!」と祭りの幹部の家に怒鳴り込んだり、中には役者を務める自分の息子が恥をかかされたことに憤って曳山の前で大の字になって立ちふさがって、「私を轢いてから行け!」と妨害する母親のエピソードもありました。祭りではそうした名誉をめぐる主張やそれが得られないことへの怒りや悲しみ、さらに威信をめぐる意地の張り合いや自己顕示欲が交錯し、毎回のようにもめ事が起こります。
ただしこうしたコンフリクトを祭りにおける単なる障害とみなすのは適切ではありません。むしろそれは町内の多くの人にスリルと興趣(面白さ)をもたらして祭りを盛りあげてくれるものでもあります。先に祭りは名誉と威信の配分であると説明しましたが、実はそれらは全ての家が得られるものではない。例えば役者の適齢期に当たる息子がいない家にはそれらが配分されることはないわけです。しかし、こうしたコンフリクトの興趣は全ての家が楽しめる。それこそが、決められた通りに淡々と進行することが求められるイベントとは違った、祭りならではの面白さでもあるのです。
さらにこうしたコンフリクトの記憶は代々受け継がれ、それがそれぞれの家が将来にわたって祭りを継承していく理由にもなっています。先に述べたように、町内の人はこの祭りのために多額のお金と相当な時間を、先祖代々にわたってかけてきています。それはなぜかといえば、いつか自分の家系から役者が選ばれることへの期待に他なりません。毎年繰り返られる、役者選びにまつわる様々なコンフリクトを経験し、役者に選ばれなかった家はその怒りや悲しみをいつか取り返さなければという思いで、次の年もまた次の年も、お金や時間を費やしていく。一旦祭りへの参加をやめてしまったら、自分の家系に名誉や威信が配分されることは永遠になくなってしまう。だからやめられない。このいつか資源の見返りとなる名誉がかえってくるはずだという期待と執念こそが、この祭りを継承させているのです。
現在の私はここまで述べてきたようなフィールドワークをもとに地域社会を調査しているわけですが、そうした立場から大学生の皆さんに伝えたいと考えていることが三つほどあります。
第一に、「自分の可能性を自分で制限すべきではない」ということです。実は、この研究を始める以前の私自身の研究スタイルは、歴史的な文献研究がメインで、フィールドワークや参与観察といった、現場に赴いてそこに飛び込んでいくという研究を実践できるとは思っていませんでした。長浜曳山祭に関して、8年もの期間、現地に密着して参与観察を行った成果を論文や書籍にし、それが一定の評価を得た今の私しか知らない人は信じないような話なんですが、自分の向き不向きなんて、最初から分かるものではないと痛感します。私だって最初は長浜の方々に求められて始めて、信頼に応えるべく食らいついた結果として、自身の適性を見いだしたわけですから。
第二にフィールドワークを通して自分自身が知らない異文化のありよう、思いもつかなかったような考え方に向きあってほしいということです。曳山祭をはじめ長浜の調査には毎年教え子である学生も参加していましたが、そこで学生たちが見たのは完全な異文化だったと思います。長浜には先祖代々続く家と祭りの継承への強い思いがあり、また歴史ある町並みやそこを流れる川の環境を守りつつ、そうした場でイベントを企画して楽しんでいこうとする住民の意識があふれています。自分たちの手で暮らしを充実させられるという意識と意欲を持ったそんな地域社会のあり方は学生たちにはなかなか想像がつかないはずですし、それに接することで「こんな世界、こういう生の在り方があるんだ」ということに気づくことができるはずです。長浜に限りませんが、そうした気づきや発見があるかどうかによって、その人自身の考え方や人生の選択肢の幅は全く違ってくるのではないでしょうか。
第三に、地域社会でフィールドワークを行う上では単なる受益者になるだけではなく、どのような形でもいいのでそこで自分が仲間の一員として認められるためにはどうすればいいか、そしてそこで自分が貢献できることは何かを意識してほしいということです。私の場合であれば若衆として祭りに貢献することであり、そして研究を通して町内の人たちが祭りの将来を検討する材料を提示することでした。学生たちもまた、祭りの成功を祈る裸参りという行事への参加や篠笛を習って囃子方として祭りで演奏すること、さらに地元向けの報告会の開催や、私が共編者を務めた本の共著での執筆が挙げられます。
ただその場合、耳に快いことを言うことだけが貢献になるとは限りません。むしろ長浜の中心市街地に学生たちを連れて視察に行くと、商店街連盟の理事長さんは「報告書を書くときには批判してほしい」とよくおっしゃいます。長浜は株式会社黒壁によるガラス文化の観光まちづくりで知られた町ですが、単に成功しているというだけという報告はもう聞き慣れている、と。そうではなく、いまこの町に何が足りないのか。どんな課題があるのか、そのヒントになるような耳の痛い話をしてほしいというのです。いわば外からの目線で善意ある批評を行う役割がそこでは期待されている。そのためには単なる表面的な観察ではなく、その地域社会の良さや人びとの考え方を理解し尊重した上で、意識されていない魅力とともに課題を提起することも必要になってきます。とはいえ耳に届く批評をするためにはそのための信頼関係を築いていくことが必要で、そのためにも存在を認められるための地域社会への理解や貢献を意識しつつ、フィールドワークを行うことが大切だと思っています。
あいにくコロナ禍に見舞われ、思うように現地調査ができない状況ですが、これまでのネットワークを活用して、長浜市の中心市街地とウェブ会議ツール「Zoom」で繋がることで現地の方々から直接話を伺い、スマホでつないでいただいて街中や博物館を見学しつつ、質疑応答をするというゼミの活動を12月に行いました。もちろん行けるようになったら、実際にフィールドワークという形で現地調査をしてほしいと思っています。私も本学の学生たちと一緒に、早くそうした調査ができることを楽しみにしています!
1974年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学。博士(社会学)。専門は文化社会学・地域社会学・都市社会学・メディア論。受賞作の他に著書として『長浜曳山祭の過去と現在―祭礼と芸能継承のダイナミズム』(共編著、おうみ学術出版会、2017年)、『歴史と向きあう社会学―資料・表象・経験』(共著、ミネルヴァ書房、2015年)、『民謡からみた世界音楽―うたの地脈を探る』(共著、ミネルヴァ書房、2012年)等。