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総長から皆さんへ 第19信(11月2日) 元教員・廣末保(ひろすえ・たもつ)を読む

  • 2020年11月02日
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つい先日、毎日新聞で連載中のエッセイを集めた田中優子著『江戸から見ると』(青土社)が、2冊本となって刊行されました。私の専門はこの「江戸」の文学・文化なのです。しかし江戸という言葉には二通りの意味がありますね。江戸時代の江戸と、東京の前身の江戸です。連載エッセイは「江戸時代」の意味で使っています。江戸時代の価値観や生活、季節感、文化などから見ると、現代社会がどう見えるかという観点を中心にして書いています。また、法政大学に江戸東京研究センターがあるように、地理的な江戸も研究の対象ですので、江戸東京もよく話題にしています。

今日は、私の大学院時代の師である廣末保先生のことを書きます。実は、廣末保先生はこの「江戸」という言葉をほとんど使いませんでした。先生の専門は「近世文学」なのです。先生が主に研究していらした近松門左衛門、井原西鶴は大坂で、松尾芭蕉は日本全国で創作活動をしており、江戸時代の前半に活躍していました。後の江戸文学に影響を与えはしましたが、彼ら自身は江戸にはほとんど無縁だったのです。この、研究対象の違いがもたらした衝撃について語りたいと思います。その衝撃とは、廣末先生の講義が「何を言っているのか、まったく分からない」という衝撃でした。

前回は私が法政大学文学部日本文学科に入り、1年生の時に益田勝実先生の講義で石牟礼道子を知ったことを書きました。廣末保先生の講義を聞くようになったのは、そのさらに後、3年生の時です。なぜなら私は3年生になるまで近世文学(江戸時代の文学)には全く関心がなく、むしろ「つまらない分野」として避けて通っていたからです。3年生になるとゼミが始まりました。それまでは、言語学や構造主義文学論やフランス文学、そしてさまざまな日本の近代文学を読み、古典では『平家物語』など中世文学に関心がありました。研究というより文章を書くことが目標でしたので、私は高校生の時から決めていたとおり、近現代文学を学ぶ小田切秀雄ゼミに入ったのです。その年のテーマは昭和10年代の文学でした。ここで、思いもしなかったことが起こりました。石川淳という作家に出会ってしまったのです。

大学生という時期は、関心の対象はあっても案外その範囲は狭いものです。しかし「これはいったい何?」と思う好奇心や驚きの気持ちを持っていれば、それは思わぬ方向にそれていったり、一挙に広がったりするものです。見たことのないものを見たくなり、歩いたことのない道を歩きたくなる。この道の先に何があるのか、知りたくてたまらなくなる。皆さんもそういう経験をもっていると思います。大学とは、その気持ちのまま「知ろうとする」ことができる場所なのです。私にとっても大学時代はそういう日々だったわけです。そしてゼミで読み始めた石川淳という作家が私の目の前に開いてくれたのが、「江戸人の発想法」でした。

突然目の前に出現した江戸時代の文学や文化を、森に分け入るように、山に登るように勉強しはじめた私は、当然のことながら、廣末保先生の「近世文学」の講義を聞くようになりました。しかし、石川淳の江戸文学論を読んで「核心をつかんだ」「分かった」「すごく面白い」という感覚をもっていたにもかかわらず、そして勉強もし始めていたにもかかわらず、先生の講義が、まったく分からなかったのです。不思議なことに、理解できなかったのに、その時先生が何の話をしていたかは、今でも鮮明に覚えています。それは「遊行(ゆぎょう)ということ」でした。

「遊行」「漂泊」「悪場所」が、廣末保先生の文学論の根幹です。これを説明するとなると一年間ぐらい講義しなければなりませんので、極端に縮めて表現します。中世から江戸時代にかけて、人は一か所にとどまって暮らす人と、旅をしながら働き生きる人と、両方いたのです。それを「定住民」「遊行民」と言いました。廣末先生は遊行を「漂泊」とも表現しました。定住民は漂泊の民に対して「恐れと蔑視の複合した意識」を持っていました。そこで漂泊の民はその意識に「乗ずる」ことで、定住民の罪障を自分の身に担って漂泊します。担わせたほうにはある種のうしろめたさが生まれ、金銭などを渡すことで解消しようとします。そのような、担い担わす「不可分の関係」がそこにあった、と論じています。つまり「定住」と「遊行」は分類ではなく宿命的な「関わり」だったのです。

「悪場所」は、漂泊の民の流れの人たちによって、都市の中に作られた芝居町や遊郭のことです。しかし江戸時代の後半、上方中心だった文化が江戸中心となり芝居町や遊郭が経済を回すようになると、人々はその「宿命的な関わり」を忘却します。したがって私が目覚めた「江戸人の発想」のなかに、「遊行」は全く入っていませんでした。私は廣末保先生によって、江戸文化・近世文化の基盤となっている事実に目を開かれました。しかし石川淳の江戸はすぐに直感できたにもかかわらず、廣末先生の近世については、時間をかけて勉強することでしか、理解することはできませんでした。その理解を導いてくれたのが、廣末先生がもっていたもうひとつのテーマ、「未完の方法」でした。

廣末保先生は文学を、生き物のように動的なものとして受け止め、表現しました。芭蕉や西鶴を例に挙げながら、ひとつの言葉が次に何を生み出すか、読む者をどこへ連れて行くのか予想できないものであることを発見しました。人は言葉を読み、あるいは聞くとき、頭の中で何をしているのでしょうか? 言葉を単に意味として受け取り理解しているのではなく、次の言葉を予想し、別のことを連想し、あるいはシーンを想像し、組み立て、世界を創っているのです。つまり読書とは創造そのものなのです。そこで廣末保先生はそれを「未完の方法」と呼びました。どんな作品でも読者を創造に導くわけではありません。「未完の方法」をもっている作品が、読者を創造者にするのです。その典型として、廣末保先生は井原西鶴を挙げました。井原西鶴の文章を読んでいると、自分がカメラになって都市を動き回っているような気がします。しかしそのカメラはどこに移動するのか、誰にクローズアップするのか、次を予想できません。いわゆるストーリーが重視されているのではなく、言葉によって読者が瞬時に脳裏に描き出すシーンの連続が、次第に読者のなかでストーリーと情感を生み出すのです。近代の小説を基準にするだけでは、その方法を論ずることが、それまではできなかったのです。

また、廣末先生は文学の様式の方からも「未完の方法」を捉え、その代表として芭蕉が全国で指導していた俳諧連句を挙げました。俳諧連句は近代俳句とは異なり、複数の人間で575と77を36句連ねていく文学です。自分の句に他の人がどういう句をつけてくるか、これも予想できません。時々刻々と出来上がっていく文学なのです。この「未完の方法」というテーマは、私のなかにすっと入ってきました。その発見の重要性もよく理解できました。そのことによって文学を細かい分野ごとに分けて考えるのではなく、社会とも人間関係とも切り離さず、より広い文化のひとつの環として、つまり「方法」として見ることができるようになりました。「遊行」「漂泊」「悪場所」が、その方法という観点とつながっていきました。

法政大学の多くの先生方が、専門分野の業績だけでなく、人文社会科学上の新しい発見をしてきました。廣末保先生も文学だけでなく、その根底にある文化創造の方法、近世社会の人々の関わり、歴史的な転換期の意味など、多くの問題提起と発見をなさいました。本学日本文学科の『日本文學誌要』101号が、廣末保先生の特集を組んでいます。少しでも関心をもった方はぜひこの号をお読みください。私も、もっと詳しく先生の成し遂げた仕事について書いています。

なお、廣末保先生の文章をお読みになりたいかたは、『廣末保著作集』全12巻(1996年~影書房)があります。内容は「元禄文学研究」「近松序説」「前近代の可能性」「芭蕉」「もう一つの日本美」「悪場所の発想」「西鶴の小説」「四谷怪談」「心中天網島」「漂泊の物語」「近世文学にとっての俗」「遊行の思想と現代」です。表紙カバーには、各巻ごとに廣末保先生自身が撮影した写真が使われています。壊れていく、消えていく世界の、どれも迫力あるモノクロのスナップショットです。先生の文学への視点が、カメラのファインダーを通して見えるようです。

2020年11月2日
法政大学総長 田中優子