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総長から皆さんへ 第14信(7月20日) 元教員・内田百閒を読む その2

  • 2020年07月20日
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前回からの続きです。夏目漱石の弟子でドイツ文学者、法政大学の元教員、内田百閒(うちだ・ひゃっけん)について書いてきました。前回は短編小説の魅力や、映画『まあだだよ』の原作になった随筆『まあだかい』を紹介しました。

随筆『まあだかい』にはたくさんの法政大学卒業生が出てきます。そのなかに、のちに百閒の『阿房(あほう)列車』『第二阿房列車』『第三阿房列車』の旅に同行した平山三郎という作家がいました。旧国鉄(日本国有鉄道)で機関紙の編集をしながら法政大学に通っていた人で、大学時代は授業料を内田百閒に肩代わりしてもらっていたのだそうです。見るに見かねて学生の授業料を払ってやる教授がいたのですね。ちなみに『阿房列車』シリーズは、ひたすら駅から駅へ移動するだけの旅を書いた、かなり変わった紀行です。だから「阿房」なのです。その同行者平山三郎さんにひな子さんという娘がいました。この名前は百閒がつけた名前で、『まあだかい』では赤子の頃のひな子さんを描写しています。そのひな子さんに私は何度も会っています。それとは知らず友人に連れていってもらった、世田谷区三宿にあるとても居心地の良いおでん屋の経営者が、ひな子さんでした。ひな子さんは子供のころ「摩阿陀会」に列席したことがあり、そのことを百閒も書いています。

百閒にはもう2種、法政大学関係の作品群があります。1種が『実説艸平記(じっせつそうへいき)』と、そのもとになった『学校騒動記』『学校騒動余殃(よおう)』『予科時代』等です。一言で言うと、夏目漱石門下が集まっていた法政大学で、その門下の作家どうしの対立があり、森田草平が学内の権力を握ろうと画策して百閒を追い出したのでした。それが「法政騒動」と言われた事件です。その森田草平と事件の顛末を、『実説艸平記』はじつに丁寧に描いています。森田草平を悪くいうわけではなく生々しくユーモラスに書き、読者はつい、この人物を笑ってしまうという描き方は、漱石に通じるものがあります。

もう一種が法政大学航空研究会に関する随筆です。百閒は1929年、法政大学に日本の大学で初の航空研究会が結成されると、その会長を引き受け、学生訪欧飛行の実施に奔走しました。学生訪欧飛行とは、1931年、法政大学航空研究会のプロペラ機「青年日本号」が地図と羅針盤だけを頼りにローマに到着し世紀の快挙と言われた、その飛行のことです。その航空研究会を設立した学生が、後に朝日新聞記者となり、さらにその後全日空創立の中心となって副社長も務めた中野勝義です。百閒の『空中分解』は中野勝義への悲しみに満ちた追悼文です。百閒はそのほかにも『初飛行』『学生航空の発向』『羅馬飛行』『第二の離陸』『学生航空の揺籃』などたくさんの、航空研究会に関する随筆を書いています。法政大学にはそのような航空の歴史があったのです。現在の理工学部航空操縦学専修は、本学のその歴史に根差しています。

こうしてみると、内田百閒はずいぶん多様なものを書いていました。そのどれもが、そっと肩の力を抜いて面白がって書いているような作品ばかりです。勉強も研究も人間も面白がる—-このことを法政大学の教職員も学生も共有できると、本学はさらに面白い大学になるでしょう。

2020年7月20日
法政大学総長 田中優子