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Vol.40 法政大学大学史資料 東京法学校の姉妹校「横浜法律学校」関係の資料

2012年03月08日

東京法学校の姉妹校「横浜法律学校」関係の資料

横浜法律学校の第一期校外生(通信教育生)の「法科第一年前期通信試験登第之証」。横浜法律学校は、組合から分離後に校外生制度を開始した。

横浜法律学校の第一期校外生(通信教育生)の「法科第一年前期通信試験登第之証」。横浜法律学校は、組合から分離後に校外生制度を開始した。

本学が創立して最初の隆盛期を迎えたのは、東京法学校時代の1886(明治19)~88(明治21)年ごろでした。ボアソナードを中心とした日本民法草案、商法草案の審議が進み、わが国の法体系がフランス法系中心になるかのようなムードの中、東京法学校は主幹の薩埵正邦を中心に、法律関係の雑誌刊行、通信制による法学教育(校外生制度)の開始、講演会開催など、法学普及のための諸事業を展開していました。その一環として力を入れていたのが、地方の法律学校の支援でした。
1886年2月、群馬県高崎に地元の豪農らによって高崎法学校が設立されました。発足時から薩埵と山田東次(東京法学校第一回卒業生)が毎週交代で講師として出向いて法律の講義を行い、東京法学校の分校というべき性格のものでした。

上写真と同じ通信教育生の学生証「校外生之証」。

上写真と同じ通信教育生の学生証「校外生之証」。

これよりもさらに東京法学校との関係が深かったのが、1886年5月に横浜代言人組合(93年に横浜弁護士会と改称)により設立された横浜法律学校です。設立5カ月後には組合から分離して私立法律学校となりますが、弁護士会による設立は日本では他に例がなく、特筆すべき出来事でした。横浜法律学校には薩埵が刑法や法学通論の講師として出向いていたほか、開校時から東京法学校の教員が多く講師陣に名を連ねていました。さらに、修業年限の3年を超えて修学を希望するものは東京法学校へ編入させるなど、両校の関係は姉妹校ともいえるものでした。
また、横浜法律学校校主の大塚成吉が、ボアソナード・薩埵人脈につらなる司法省法学校正則科第一期生の代言人であることや、講師の多くが同じ司法省法学校の出身者で占められ、その中に東京法学校の講師と重複する名前が見られることからも、両校の関係の深さがうかがえます。大学史資料委員会では、横浜法律学校関係の資料を数点所蔵しています。
しかし、時を同じくして教育の官僚制的再編が急速に進み、私立法律学校に対する新たな規則ができると、その対象外となった高崎法学校は1年もたたないうちに消滅、同様に横浜法律学校も財政的な問題も重なって、1889(明治22)年ごろに廃校となったのです。

〈参考資料〉『法律学の夜明けと法政大学(法政大学大学史資料委員会編)』第三部「4・横浜法律学校(中村文也)」

『横浜法律学校規則』の表紙(右)と巻末の講師・職員一覧の一部。薩埵正邦のほか、東京法学校の講師である飯田宏作、小野衛門太、吉原三郎、福原直道、寺尾亨の名がみえる。

『横浜法律学校規則』の表紙(右)と巻末の講師・職員一覧の一部。薩埵正邦のほか、東京法学校の講師である飯田宏作、小野衛門太、吉原三郎、福原直道、寺尾亨の名がみえる。

横浜法律学校校舎(白い矢印)。左方のプラットフォームは当時の横浜駅(現桜木町駅)。中村文也氏提供の写真2枚を合成したもの。

横浜法律学校校舎(白い矢印)。左方のプラットフォームは当時の横浜駅(現桜木町駅)。中村文也氏提供の写真2枚を合成したもの。