HOSEIブックレビュー

【第2回】経営学部 奥西好夫 教授

教員の本棚から-人生を豊かにする本との出会い-

HOSEIブックレビュー

1冊の本との出会いが自分と未来を変える。

HOSEIブックレビューでは、本学の先生方より、「自分自身の形成に影響を与えた本」「未来を支える若者に読んで欲しい本」「学術領域関連で読んで欲しい本」をご紹介いただきます。
最後に、先生にとって読書とは?の質問にご回答いただいております。

第2回目は、経営学部の奥西好夫教授よりご紹介いただきました。

なお、書名のリンクをクリックすると、本学図書館蔵書検索システムの書誌詳細画面に遷移します。

自分自身の形成に影響を与えた本

小学生時代に読んだ本で、今に至るまで特に記憶に残っているのは、ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』(『ああ無情』)(新潮文庫、ほか)、アレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』(『巌窟王』)(講談社文庫、ほか)、アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズ(シリーズ)』(ちくま文庫、ほか)の3つだ。たぶん、小学校3・4年生のころ子供向けに縮約された読み物として読んだのが最初で、その後、小学校5・6年生のころ小学館『少年少女世界名作文学全集』の中で読み、さらに、社会人になってから全訳版文庫本を購入して全て読み返している。

読み始めたきっかけは学校の図書室や市立図書館で偶然手にしたからだが、あまりに面白く夢中になって読んだ記憶がある。それぞれ、人間の博愛心、嫉妬や復讐心、論理的推論など人生で大切なテーマを扱っているが、それは結果論であり、直接のきっかけは本の表紙や挿絵だったと思う。その後、中学生時代は芥川龍之介、30代前半のアメリカ留学時代は坂口安吾、より最近はカズオ・イシグロなど、好んで読んだ作家は何人かいるが、子供のころに出会った3冊のインパクトを上回るものはない。

自身の学術領域関連で読んで欲しい本

私の専門は「人事経済学」、すなわち経済学的手法を使って人事制度などを分析する分野だ。人間の経済合理性や完全情報、完全競争市場を前提とする正統派経済学では、そもそも組織や人事は分析対象となり得なかったが、1980年代くらいから盛んになった「不完全情報の経済学」を契機にそうした状況は大いに変わった。大学時代、経済学を専攻し、卒業後もエコノミスト的な仕事に就いており、おカネよりもヒトや労働に興味があった私がこの新分野に興味を抱いたのは自然な成り行きだった。

人事経済学のパイオニアと言えばエドワード・ラジアーだが、彼が書いたビジネス・スクール用の教科書人事と組織の経済学(日本経済新聞社)と人事と組織の経済学 実践編(マイケル・ギブスとの共著、日本経済新聞社)が入門書と言える。ただ、私自身の好みは、Baron, James N. and David M. Kreps, Strategic Human Resources(John Wiley and Sons)だ。これは組織行動論と理論経済学の専門家による共著で、それぞれの分野の垣根をあまり感じさせず、両分野の良さが見事にブレンドした人的資源管理の教科書だ。

なお、最近の経済学では経済非合理性も許容する「行動経済学」が認知されつつある。まだ人事経済学に十分活用されているとは言い難いが、その入門書としてリチャード・セイラー『行動経済学の逆襲』早川書房)がある。余談になるが、私が1990年前後の数年間、アメリカのコーネル大学で労働経済学の博士課程学生だった頃、彼はビジネス・スクールの教員で労働経済のセミナーにもたまに参加していた。尊大な態度で、報告者にときどき茶々を入れたりしていたが、当時、彼が将来ノーベル経済学賞を受賞する(2017年)と思った人はいなかったのではないか。本書を読むと、その経緯が垣間見えるようで興味深い。

未来を支える若者に読んでほしい本

これは大変難しいリクエストだ。人それぞれの人生が異なるように、必要な本、興味を覚える本もそれぞれに異なっていると思うからだ。さらに、若い学生相手となると世代間のギャップも大きい。コンピュータ・ゲームが普及し始めたころ私は既に社会人で、仕事に追われてゲームに興味を持ったり、やったりする余裕はなかった。パソコンを初めて使ったのは1985年、最初にアメリカに留学したときで、既に30歳近くだった。インターネットの普及はさらにその10年以上先だ。ところが今の若者は、パソコンやスマホ、インターネットが当たり前の時代に生まれ育っている。特に最近、こうした世代とギャップを感じることが多い。そんなわけで、ここでは、私自身がモヤモヤと感じている違和感や不安の一端を書かせていただきたい。

4年前、映画『君の名は。』を観たとき、主人公の男女の人格が頻繁に入れ替わったり、時空の異なるシーンが次々に現れたりするのについて行けなかった。それをゼミで話したら、ある学生が自分にはよく理解できたと、私に一生懸命説明してくれた。しかし残念ながら、私には彼女のような理解力がないことを再確認したのみだった。その点、今年1〜3月に放映されたテレビドラマ『テセウスの船』はまだ分かりやすかった(初回を観たときは、ついて行けないなと思ったが、その後も録画だけはし、連休中にまとめて観た)。現在の主人公が現在と過去を行き来し、過去の他の人も巻き込んで過去の出来事を変えてしまう。最近読んだ小説では、東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(角川文庫)で現在と過去が同時進行するという設定が現れる。このため、現在の人は、過去から今までに世の中で何が起きたかを知った上で、過去の人にアドバイスすることが可能になる。

これらはいずれも悪意のないフィクションで、面白く見たり読んだりできる。しかし、フィクションの中に「リアル」と「非リアル」(例えば未来の人間が現在に現れ、現在の人間と一緒に振る舞うというのはあり得ないことだ)が同居しているので、「リアル」が相対化されるような錯覚を覚えるのも事実だ。そもそも、フィクションとリアルは截然と区別できるわけではない、と言われればそれまでだが(「リアリティ・ショー」なるテレビ番組はその一例だ)、時制が同期している中でのフィクションに比べ違和感が大きい。

特に私が気になるのは、最近、これらヴァーチャル・リアリティ風な作品と現実世界との間に偶然とは思えないような符合が目立つことだ。例えば、歴史認識の問題。同じ事実について異なる評価があるのは自然なことだが、中には事実そのものの改竄と言っていいようなものもある。また、重要な公的文書を記録・保存しなかったり、都合が悪いと改竄や廃棄したりすることも起きている。そもそも、デジタル資料は紙などに書かれた文字資料以上に保存が困難であるとの指摘もある(ジョン・ポールフリー『ネット時代の図書館戦略』原書房)。さらに、「他人(AIを含む)任せ」傾向が強まり、個人の自由が損なわれるのではないか、過去の事実の改竄とも相まって、無責任が強まり倫理観が崩壊していくのではないかといった懸念もある。

こうしたモヤモヤした気分を解き明かしてくれる本はないか。そこで思い出したのが以前読んだ西垣 通『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(岩波書店)だ。25年前に出版された本だが、今回再読しても内容が旧い感じはほとんどしなかった。「『ヴァーチャル』とは、現実に対立する『虚構』という意味ではなく、たとえ虚構の信号から構成されていても『事実上は現実と同様の効果をもつ』ということだ。」その上で、主に「体験型ヴァーチャル・リアリティ」を取り上げ、「高い対話性に裏付けられた没入感」が最大の特徴であること、その結果、自分の「分身」が生まれ、社会性の喪失、権力欲や攻撃性の増大、「偽の聖性」への誘惑などが生ずる危険性を指摘する。

この流れで、同じ著者が2018年に出版した『AI原論』(講談社)も読んでみた。大略、以下の内容だ。2010年代以降、深層学習を中心としたAIの発展にはめざましいものがあり、やがて人知をしのぐとの説もある。しかしそうした考えは誤りだ。なぜなら、機械は人間によってその作動プログラムを規定された「他律系」だが、人間はその作動プログラムを自ら作り出す「自律系」だからだ。(と言ってしまうと身も蓋もないが、著者はそれを論証するために、素朴実在論、相関主義、思弁的実在論など主要な哲学的立場を批判的に検討し、さらにはオートポイエーシス理論など最近の生物学的研究の成果も用い、説得的な論理を構築することに本書の大半を費やしている。)しかしながら、今後、クラウドAIネットなど「擬似的自律性」(どこまでが人間の判断でどこからがAIの判断か、利用者はもとより設計者にも判別が困難)を持つようになることが十分予測できる。その際、自由意思や責任の問題をどう考えるかが、今以上に困難な課題となる。

以上は、コロナ自粛期間中の私のちょっとした読書ツアーだが、これで当初のモヤモヤ感が解消したというわけではない。コロナ同様、これからもずっと考えていきたいテーマの一つだ。

自分にとって読書とは

職業柄、専門分野に関する読書のウェイトが高いが、オンライン・ジャーナルやインターネットの普及により、以前より書籍の読書は減っている。しかし、あまり「土地勘」のない分野を新たに学びたいときなどは、依然として読書に頼ることが多い。グーグルのエンジン検索は、ウェブ化された情報でリンク数が多いものが優先されるため、ある種のバイアスがあるように感じるからだ(信頼性はさておき、多くの人が参照している情報が引っかかりやすい)。

最後に、若い学生の皆さんに次のことをお伝えしたい。私は学部生時代、経済学の古典の一つ、ジョン・メイナード・ケインズ『一般理論』を読んだが、その最後に次のような一節がある。「経済・政治哲学の分野で、25歳あるいは30歳以降に新しい理論の影響を受ける人は多くない。」このため、ケインズは役人や政治家が依拠する理論も最新のものでないことが多い、と続けるのだが、社会科学では新しい理論が古い理論より正しいとは限らない。一時のあだ花で終わる理論もあれば、長い時間軸で行きつ戻りつ揺れ動く考えもある。

「しかし」、とケインズは最後にこう締めくくる。「遅かれ早かれ、善きにつけ悪しきにつけ危険なのは既得権(vested interests)ではなく、ものごとの考え方(ideas)だ。」若い頃の私は、正直、この文の意味がよく理解できなかった。個人の経済合理性という主流派経済学の前提に従うなら、世の中に影響するのは人びとのイデオロギーではなく、既得権(損得勘定)のはずだ。しかしその後、時代の大きな変化を経験する中で、ものごとの考え方(例えば、新自由主義、グローバリズムなど)がもつ影響力の強さを何度か目撃した。そういう体験も踏まえ、今、主流の考え方だけでなく、それとは対立する考え方も是非学んでほしいと思っている。