お知らせ

2024年度学位授与式 廣瀬克哉総長 告辞

  • 2025年03月24日
  • イベント・行事
お知らせ

卒業生、修了生のみなさん、ご卒業、ご修了おめでとうございます。ご家族の皆様にも、心よりお祝い申し上げます。

今日学部の卒業を迎える人のほとんどは、2021年4月に入学したみなさんです。その大半は高校3年生をコロナ禍の最初の1年という大きな制約の中で過ごすことを余儀なくされた学年です。大学では自分から能動的に動かないと、自分がめざす大学生らしい生活を送ることができない。そんな思いをもって入学し、大学生活を始めたのがみなさんでした。コロナ前までの学生に比べても、今年の新入生は活発だ。その時々の条件の下で、出来る限りのことを積極的に行おうとする学年だという強い印象をもったことを覚えています。今から振り返ると2021年度からの1、2年は、まだまだ制約の多い時期でしたが、それから、時期による波はありながらも、徐々に制約が少なくなっていくプロセスをリアルタイムに体感しながら歩んで来た4年間でした。今となっては、その頃の大学生活は遠い昔のように感じられているでしょうか。それとも、都度々々、どこまで自分の生活をコロナ前のような状態に戻すか、悩んだことをまだまだ鮮明に覚えているでしょうか。

マスクを外した時期は周囲の人よりも早い方でしたか? それとも遅い方でしたか? そのタイミングは、周囲の状況に合わせることを意識して選びましたか? それとも周囲の状況よりも自分の価値判断を重んじて決めたでしょうか? オンラインと対面が選べるとしたら、自分はどちらを選択したい方だと思いますか?

この4年という時間は、そんなさまざまな選択の連続で構成されていました。そのほとんどは、それまでの生活の中では迫られることのなかった、まったく新たな体験でした。数年にわたって、自分をとりまく環境に状況の好転と悪化の波が繰り返され、しかし状況全体はゆっくりと時間をかけて平常に戻っていく。そんな日々のなかに無数の選択があり、まるで自分の個性の精密検査のようなものとなりました。それだからこそ、その選択の連続と集積のなかには、自分らしさが刻まれています。卒業、修了という節目にあたって、あらためてこれまでの学生生活の中に刻まれている「自分らしさ」を振り返り、確認しておくことからは、きっと多くのことが得られると思います。

さて、2025年春、いまというタイミングは大きな変化の渦の中にあるといって良いでしょう。アメリカのトランプ政権が突然打ち出す政策や、国際紛争の先が読めない展開、グローバル経済の見通しなど、私たちは日々目まぐるしく展開して行く情勢に翻弄されています。しかし、より重要なのは、そのような表面に現れる現象の背景に潜んでいる、社会や経済、あるいは制度の変化です。またおそらくそれよりも長いスパンの大きな変化が文化や科学技術の領域で生じ、変化のそれぞれが合わさって、全体として臨界点に達しつつあるのではないか。現在は、そういう種類の変化を迎えようとしているのではないかという予感をもたずにはいられません。

大学で取り組んでいる学問や研究というのは、それぞれの専門領域に根をおろして、個々の視点から変化を観察したり、発明や開発を通して自ら変化を生み出したりします。ひとつひとつの領域については、精密に正確に変化を捉えることができていたり、小さいかもしれないけれども意義のある変化を生み出す当事者としての役割を担っていたりするかも知れません。しかし、そのさまざまな領域の変化が合わさって生じる、大きな急激な変化の全体を的確につかむことは簡単ではありません。特定の視点からでは見えない場所があります。変化を測る道具はひとつの尺度ですが、測る必要があったり意味があったりするものを何でも正確に測れるわけではありません。あらゆる専門には限界があり、どの専門を取りあげても万能ではありません。それでは、これから迎えようとしている、大きな激しい変化に対して、大学で学ぶ専門というのはまったく無力なのでしょうか?

決してそうではないと私は考えています。まず、どこかに自分の立脚点を持たないで大きな変化の渦に巻き込まれてしまうと、自分が上を向いているのか下を向いているのかも分からなくなりますし、自分が止まっていて周囲のものごとが動いているのか、周囲がとまっているなかで自分だけが翻弄されているのかも分からなくなります。だからこそ、どこかの領域に自分の足場を構えて、その場所から、自分の専門領域の得意とする分析道具を駆使して、「大きな急激な変化の、できるだけ全体に近いものを的確につかもうとすること」が大切なのです。

学部を卒業しようとしている人の多くにとっては、先生や大学院生などと比べると、自分は学問の入り口を少しなぞった程度で、「専門領域」といえるような立脚点など持っていない、というのが実感かも知れません。また、今日博士の学位を取得しようとしている人にとっては、自分が博士論文で取り組んだのはとても狭い特殊な領域であって、学位記に記されている博士(○○学)の「○○学」を身に付けたなどとはとても思えない、というのが実感かも知れません。

しかし、大学で教えていると実感するのですが、学部を卒業するまでには、みなさんは自分自身が意識している以上に、目のつけどころが自分の専攻分野に、良い意味で染まっています。染まるのはいわゆる優等生だけではありません。ぎりぎりの成績で何とか卒業要件をクリアした人もまた、立派にその専攻に染まっています。自分が思っている以上に、自分は卒業した領域の専門性に結構染まっているのだと意識してください。ただし、それは自分の「目のつけどころ」には一定のバイアスがかかっているのだ、ということを忘れないために、自覚しておいてください。そして、そのバイアスが「万能ではない」ということを肝に銘じておいてください。

これからみなさんが過ごして行く、大きな激しい変化が予想される世界では、自分がどんな専門領域に「染まって」いるのかを意識し、その立脚点から自分は変化していく世界を観測しているのだということを忘れないことが大切です。ぶつかっている変化の規模が大きいからこそ、自分は自分の視点から、他の専門を持っている人はまた別の視点から、同じ対象をとらえ、それをすり合わせた時に、より正確な全体像に近づくことができます。自分の視点に無自覚なままでは、そういうすりあわせができません。

そのうえで、大きな激しい変化のまっただ中に巻き込まれたとき、自分の反応にはどんな特性があるのかを意識しておいてください。先ほど申し上げた、この4年間の経験が自分の個性の精密検査になっていたということが役にたちます。変化の渦にただ翻弄されることなく、的確に状況を認識し、反応し、周囲に対して自分なりに何か主体的な働きかけをする道が開ける可能性が、そこから生まれてくるはずです。

もちろん、いま身に付けた専門性、これまでに自覚することができた現時点の自分の個性に、ずっとしがみついている必要はありません。意識的に自分の行動の特性を変えていくことも可能です。別の専門を身に付けたいと思ったら、その時点で新たに学べば良いのです。学ぶ手段は世の中に多様に存在します。その中でも、大学や大学院は、効率的に体系的な学びができるという特性をもっています。これからの人生のみちすじの中に、あらためて学ぶという選択肢をぜひ用意しておいてください。自分の中に複数の視点をもっていることは、確実にみなさんの武器になります。ものの見方をより広く、深いものにしてくれます。だからこそ、学び続けるということが大事なのです。ですから、今日は学ぶ時間が終わった解放の日というわけではありません。それならば、一生学びという重荷を背負い続けなければならないという呪いを確認する日なのでしょうか?それも違います。学びは決して重荷ではなく、自分をより自由にしてくれるものです。限界を分かりつつ自分の専門知を磨き、必要に応じて別の専門知を加えながら学びのステージを進めていくノウハウを身に付けること。それこそが「自由を生き抜く実践知」と呼ぶに値します。それを駆使して、これからのみなさんの人生が、より豊かな、実り多いものになっていく道に歩み出す門出として、大事な節目をお祝いする日なのです。

みなさんの前途が素晴らしいものとなることを確信しながら、送ることばといたします。

(以上)