哲学のもともとの意味は知恵を愛し求めることです。これは古今東西にわたって人類が続けている数千年の営みです。哲学はあるゆる事柄を原点に立ち返って考える知の営みです。たとえば、なるほど生理学と同じように哲学も身体を研究します。しかし、心身一体となった人間全体を解明するために、哲学は身体を研究します。哲学にあっては、あらゆる事柄をより深く原点から問題化することがもっとも大切なことなのです。
日本は、明治時代以来、欧米の科学技術文明を受容し、いまや現代文明の最先端を走っています。実はこの科学技術文明の発達と併行してその意味や限界を問うてきたのは、古代以来の伝統をふまえた近・現代の西洋哲学です。西洋哲学を学ぶことによって、またさらに西洋の伝統にない東洋哲学も顧みることで、たとえば現代文明による地球環境破壊などの人類存亡の危機に、いっそう柔軟な発想で対応できるはずです。
わたしたちは現代の高度情報消費社会で生活していると、氾濫する商品や情報に翻弄されて自己を見失いやすくなっています。このような社会のモデルとされるような合理的行為の功罪を解明し、個性的な価値に根ざしたクリエーティヴな行為を構想することは、21世紀のライフスタイルを確立するためにも大切なことです。大学進学を前に「どうしたらよいだろうか」と自問している人は、達成されるのがよいとされる人生の目的を求めて思い悩んでいるのかもしれません。こう生きるべきという人生の具体的な目標を実感しにくい時代だからこそ、わたしたちは、行為について根源から問い直す必要に迫られているとはいえないでしょうか。
わたしたち人間の行為は動物の行動一般に見られる刺激に対する反応とは違って、「よさ」という価値に関わっています。この問いによって、ある目的を達成する手段としてよい行為がどの行為であるか、さらには、達成されるのがよいとされる目的がどの目的であるかを問うているのです。たとえば、バニラアイスを食べる食べないは、その人の好みの問題ですから、食べたい人が食べればよいわけです。しかし、援助交際の場合はどうでしょう。その人が好きでやっているのだから、かまわないといえるでしょうか。殺人の場合はどうでしょう。好きでやっているのだから、それでいいとはもういえないでしょう。倫理とは、好きでやっているのだから、かまわないとか、それでいいとはいえない場面で問題となっていることです。それはつきつめていくと、幸せとは何か、人生いかに生きるべきか、という問題に行き着くはずです。
現代の日本社会は構造変革が激しく、人間が生きることの意味について深く考えざるをえない状況が増えています。しかし、人間について考えるといっても、どのように考えればよいのでしょうか。問題にぶつかってただもがくだけでは、かえって問題が泥沼化して難しくなる、という経験は誰にでもあるでしょう。これは、海で溺れかかっているときに似ていませんか。かえってじっと反省して、そもそも人間とは何か、と原点に立ち返って問うことで、ものごとが新たに見えてこないでしょうか。広く深く考えて人間の本質をつかむこと、これは哲学の重要なテーマです。
人間は社会を形成しその中でしか生きられません。そして人間は個人としても集団としても歴史を背負って生きています。ある人(たとえばあなた)が、ある社会(たとえばあなたが知っている国や地域)のなかで生きてゆくとき、その社会やその社会の歴史についてなにひとつ考える必要はない、というわけにはいきません。ある社会がそのようにあるのはなぜでしょうか。その由来はどのようなものでしょうか。あるいは一般に、国家社会はどのように成立し、どのようなシステムによって機能し、そして他の国家社会とどのような関係をもつことができるのでしょうか。人間は社会と歴史のなかに立たされています。そして、社会と歴史に思いをいたすことにより、人間もまた明るみに照らされるのです。
芸術は、たとえば絵画や音楽、建築のように具体的で直感的に捉えられるものです。芸術は人間の創造的な活動の成果であり、その美的な理想の表現です。芸術の哲学は、これらを鑑賞するひとの心を感動させる根拠や自然の美と芸術作品の美との相違点などを哲学的に考察します。また、宗教的な信仰は、科学的な知識とはどのように違うのか、また信仰の対象である神の存在や教えを信じることは、どのような意味があるのか。これらの問いは人間の生き方に深く関わり、他の学問との関わりにも目を向ける文化の哲学とも結びついています。
古代や中世の人間と近代・現代の人間とを決定的に分かつもの、それは後者が科学を持つ、ということです。わたしたちは、好むと好まざるとに関わらず、科学的世界像の中で生きていかざるをえません。わたしたちのあり方にこれほど大きな影響を与えた科学とは、いったいどのような知的活動なのか。その本質は何であり、それはどのような可能性と限界を持つものなのか。こうした問題に答えようとするのが科学の哲学です。科学について問うとは、近代・現代に特有な知の核心を問うことであり、それは世界と人間への問いかけの不可欠の一部をなすものなのです。
こころについて深く考えれば考えるほど、それは奇妙で逆説的な性質を持つものに見えてきます。時にはそれはほとんど「ありえるはずのないもの」のようにさえ感じられることがあります。現代のこころの哲学は、そうしたこころの存在の奇妙さへの驚きと困惑の表現であり、それを解決しようとする哲学者たちの苦闘の産物です。心理学は脳科学に還元されるのか。コンピュータがこころを持つことは可能なのか。そもそもわたしのこころの存在をわたしはどうやって知ったのか。わたしたちはこころの正体について、まだほとんど何も知ってはいないのです。
人間とその他の動物とのもっとも大きな違いは、人間が言語を使うことができ、それによって議論したり意思を伝えたりできる、ということでしょう。言語と論理は思考とコミュニケーションのもっとも基本的な道具であり、人間のすべての合理的活動の基礎にあるものです。けれども、言語が意味を持つとはそもそもどういうことか、正しい議論とそうでない議論とを分かつものは一体何か、といった言語と論理に関わる根本的問題は、実はまだ解かれていない問題なのです。論理と言語の哲学は、人間の本質に関わるこうした問いへの挑戦なのです。
(提出された卒業論文題目の一部です。)