溝口健二の映画と人工知能
私が皆さんと同じ大学生だったのはもう30年以上前になります。そして、私が大学生のころから、学部長としてこの文章を書いている間に、当然とはいえ、社会では大きく変わったことと、そうではないことがあります。私は映画を中心に映像と物語に関する認知科学、あるいは情報科学的な研究を行ってきました。大学の学部の卒業論文も同様のテーマで書きました。この、映画と物語について、30年間で大きく変わったことと、そうではないことを、例としてまず考えてみましょう。
私が大学生のころの映画館はアナログフィルムによる上映がどの映画館でも行われていました。ハリウッド映画であろうが、日本のメジャーな会社のものであろうが、あるいは、ドキュメンタリー映画でも、アート系の映画でも、ほぼすべてがアナログフィルム上映だったのです。そして、現在シネコンと言われているような施設もまだほとんどありませんでした。私は、レンタルビデオ店もよく使っていましたが、その主流はVHSビデオでした。映画に関する情報を私が得るのもアナログ的な雑誌や新聞、本、そして映画館自体からでした。
今、みなさんはどのように映画に接しているでしょうか。アナログフィルムによって撮影された映画は、実は現在でもアメリカを中心にかなり多いのですが、それらに最終的に皆さんが接するのは、ほとんどがデジタル的な環境になっています。テレビだろうが、パソコンだろうが、タブレットだろうが、スマートフォンだろうが、そして映画館で接する時であろうが、いずれもデジタル化されたものです。また、ディスクで接すること自体が少なくなっているでしょうし、レンタルするにしても、配信サイトから直接の場合がほとんどだと思います。つまり、映画に関する環境は劇的に変化していると言えます。映画に関する情報もデジタル的な口コミからであることが当然になっています。
では、それによって真に変わったことは何でしょうか。実は、何も変わっていない、という言い方をすることもできます。映像作品に接する側である人の認知の仕組みはさほど変わってはいないからです。物語への接し方は、簡単に変わるものではありません。
とはいえ、映画の質感はデジタルとアナログでは異なります。アナログフィルムは不安定で傷つきやすいが、そのため、毎回異なる新鮮さもある。一方でデジタルは、エラーを減らすことを前提としたメカニズムであるため、安定はしているが、新規性が無くなると共に、質感への関心も減縮していきやすい。どちらを好むかは、完全に趣味の問題だとも言えますが、両者が質的には異なることは確かでしょう。
私が、当時でも没後35年以上が経過していた溝口健二監督の映画にフィルム上映で徹底的に接したのは、大学2年生の時でした。溝口監督は、社会学部のみなさんは、少なくとも名前だけは知っておいてほしい、日本のみにとどまらない、世界映画史を代表する監督の一人です。私が映画の可能性に貫かれ、関連する研究を始めたのは、溝口体験があったからでした。ただ、『雨月物語』が代表作とされていますが、これが必ずしも最高傑作とはいえない、というところが映画の難しいところです。『残菊物語』『西鶴一代女』『近松物語』などが専門家の多くが挙げる傑作映画でしょうか。とはいえ、私が近年、常に考えていることなのですが、これらの昔の作品を、デジタル環境のみで接する現在においても、本当に皆さんに勧めることができるのか、という問題があります。溝口作品のように、アナログフィルムによって生じる質感・認知を最大限に強調・増幅することを目指して作られていた過去の作品を、デジタル環境で、今、正当に評価できるのかについては疑問な点もあるからです。物語としての評価は現在でも可能です。しかし、アナログ的な質感の評価やそれに伴う認知など、もはや評価しづらい側面も出てきています。それはやむをえないことではあるのですが、デジタル環境で接する場合において、何かが失われている可能性については考え続けなければならないのです。
映画と物語について、溝口作品を例にして語ってきましたが、この問題は、多くの社会課題の中にも存在しています。なぜならば、デジタル環境において人工知能が浸透しつつあり、スマートフォンを含めたコンピュータがありとあらゆる場所に偏在して、全てをデジタルデータに置き換え、常に遠くのサーバとやりとりをしながら動き続けている現代社会において、それでもなお、デジタルデータに置き換えられないもの、つまりは人工知能でも捉えられないものは何なのか、という問題が、社会的側面においても個人的側面においても存在しているからです。社会学部で学び、研究する皆さんに、常に考えてほしい問題です。
これから皆さんは、デジタル的に大学から提供される様々なシステムを有効に利用しつつ、同時に対面での様々な活動を行なっていくことと思います。両者には共に利点と欠点があるのですが、それらを噛み締めながら、新しい人生体験をしていってほしいと願っています。私にとっての溝口体験のように。
人工知能の発展は、今後の社会を様々に変えていくことでしょう。ですが、今あるいは今すぐ人工知能が扱えるであろうものと、当分の間は扱えないであろうものがあります。それらは、過去から現在で社会において何が大きく変化し、何が大きくは変化していないかを考えることなどを通じて、ある程度は把握し、対応していくことができます。社会学部の皆さんは、卒業論文などで、直接的・間接的の違いはあるでしょうが、以上を分析し、実践していくことが期待されています。どうぞよろしくお願い致します。
社会学部長 金井 明人