習志野校舎(千葉県船橋市)から富士見校舎(東京都千代田区)に移転してスタートした工学部は、そのわずか2年後1952年春、麻布校舎(東京都港区)へ移転します。狭い校地、古い校舎でしたが、この地でようやく実験室、実習室をはじめとした理工系学部に必要な整備が本格化しました。その後1964年の小金井キャンパス(東京都小金井市)への移転まで、麻布校舎時代は工学部の大きな発展期となりました。『経済白書』に「技術革新」という語が登場(1956年)し、高度経済成長に向かう日本社会で、理工系人材への期待が高まり、工学部の入学志願者も、497名(1952年)、780名(1956年)、1733名(1957年)と年々大幅な増加を続けました。
工学部が発展を遂げた麻布校舎時代、学生たちの学びと活動も大きく広がりました。
この時期を、「学生諸君がその最も法政らしい活力を示した」と回顧する当時の教員(大江宏)もいます。
学生たちは授業で得た刺激を深めるべく、自主的に各種「研究会」を立ち上げ、研究会を束ねる「技術連盟」も結成しました。そして各研究会が毎年の成果を発表する場として、1953年から、学生主体の「工学祭」が始まります。研究会での自由闊達な活動は、大学生活での得がたい記憶や友人関係となり、卒業後の集いの場である「同窓会」も生まれていきました。