敗戦後、航空工業専門学校はその存在理由を失い、1945年10月、法政大学工業専門学校へと改組されました。工業専門学校は1947年3月に千葉県習志野に移転、校舎は陸軍の兵舎を改造したものでした。習志野では入学志願者集めに苦労し、様々な試みが重ねられましたが、最も話題を呼んだのが千葉県下中等学校放送討論会でした。朝日新聞社の後援を得て、千葉県下の各校から参加者を集めた討論会は全国放送されるなど予想以上の好評を呼び、学校が習志野から富士見(東京都千代田区)へ移転した後も大学として取り組み、1968年まで22回も続けられました。
法政大学工業専門学校の習志野校舎は最寄りの国電津田沼駅から4キロ以上離れており、40分以上も歩かなければならない極めて不便なところにありました。そのため、木月校舎(神奈川県川崎市)で既に学んでいた学生たちの中から移転反対運動が起こり、移転決定後は多くの学生たちが去っていきました。他方で、校舎から駅までの長い距離は学生と教員の距離を縮める時間にもなりました。「帰路を学生諸君と共に歩いた。教室での接触よりも、この方がわれわれにとってより貴重な接触の機会であった」と回顧する当時の教員もいます。