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【法政の研究ブランドvol.12】コロナ禍で顕著となったセーフティーネットの格差 ― 日本の労働市場と社会保険を正しく理解するために ―(経済学部経済学科 酒井 正 教授)

  • 2021年07月02日
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「法政の研究ブランド」シリーズ

法政大学では、これからの社会・世界のフロントランナーたる、魅力的で刺激的な研究が日々生み出されています。
本シリーズは、そんな法政ブランドの研究ストーリーを、記事や動画でお伝えしていきます。

社会保障と労働をつなぐ研究を意識

コロナ禍のいま、社会保障について関心が高まっています。一口に社会保障と言っても、大別すると社会保険と福祉に分かれています。さらに社会保険は年金、医療保険、雇用保険、労災保険と幅広く区別されます。社会保障を専門にする人たちの間では、年金や健康保険がメインテーマであることが多く、雇用保険もしくは労災保険を専門にしている人は必ずしも多くないというのが現状です。

私は、労働経済学を専門に研究してきたのですが、この分野において雇用保険を扱う際、そこには社会保険という視点が少ないように感じていました。年金や健康保険という従来の社会保障のメインストリームを成すテーマと、労働保険、すなわち雇用保険と労災保険は、それぞれ独立して研究されていた趣があります。ところが実際に研究してみると、確かに異なる点もありますが、「雇用形態による格差」など、共通する問題があることに気づき、前職の国立社会保障・人口問題研究所では、社会保障と労働を橋渡しするような研究を意識していました。

現在は法政大学経済学部に籍を置いていますが、これまでの研究に一旦区切りをつけるため、2020年2月に「日本のセーフティーネット格差」(慶應義塾大学出版会)を上梓しました。本書の執筆はコロナ禍以前に行ったのですが、新型コロナウイルスの拡大により、図らずも本の中で問題提起したことが顕著化したことで注目して頂いた気がします。

労働市場における諸問題がコロナ禍で顕著化

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「日本のセーフティーネット格差」で詳述していますが、2000年代以降、高齢者の就業の拡大を後押しする政策が進められてきました。更に2020年の高年齢者雇用安定法の改正によって、2021年4月からは努力義務とは言え、70歳までの雇用確保が企業に課され、今や70歳まで働くことが当然な時代が到来しました。高齢者の他にも昨今、女性や外国人など、これまであまり就業していなかった人びとを労働市場に包摂していく政策を進めてきた過程で、今回のコロナの拡大が起こりました。

コロナ禍における政策対応は、十分とは言えないものの、個人的には非常に迅速かつ大規模だったと評価しています。代表的な施策としては雇用調整助成金の特例措置が挙げられますが、これはリーマンショックの時に比べても数倍以上の規模だったと思います。そして、この雇用調整助成金の特例措置によって、正規雇用からの失業の急激な増加は抑えられていると解釈できます。正規雇用の盤石さが浮き彫りになったと言えます。

一方で、非正規雇用に目を向けると、多くの企業で雇用削減が顕著でした。労働市場へ新たに参加する場合、非正規雇用という形態を取ることが多く、そうした人たちはセーフティーネットが脆弱なため、いま最も苦境に陥っているのではないかと思います。

非正規雇用の人たちが救済されにくいのは、社会保険の枠組みでは致し方ない面もあります。そこで、従来の社会保険に代わる仕組みとして、「第二のセーフティーネット」というものがあります。リーマンショック後に制度として導入された、求職者支援制度や住宅確保給付金、緊急小口資金・総合支援資金などがそれに当たります。求職者支援制度はそれほど機能していない印象ですが、緊急小口資金や住宅確保給付金は今回かなり活躍しているようです。

コロナ禍では、国の包摂的な労働政策により、これまで労働市場に取り込まれてきた人たちが一番苦境に陥っているのが現状です。こうした労働政策自体は、今後も推進していかねばなりませんが、それらの対象となる人たちのセーフティーネットの問題が少し疎かになっていたのではないかという気がしています。

高齢者や女性、外国人といった新たな労働市場への参加者が、就業者の全体像を変えうるということを理解しておく必要があります。つまり、今まで働いていなかった人たちが労働市場に参加するようになるということは、これまで想定していなかったことも起きるということです。

社会保険を運営する側から見ると、保険事故の観点から今までとは異なる人たちが加入者になるということです。そうした人たちを取り込んで、セーフティーネットを提供することが目的ですから、むろんそれは悪いことではありません。ただ、給付の様相が変わってくることは、社会保険のあり方を考える上では決して見落としてはならないと思っています。

社会の諸問題について議論する土台をつくることが大切

「日本のセーフティーネット格差」では、政策のあり方をめぐり、EBPM(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)の有効性について述べていますが、エビデンスに基づいた政策形成に大筋では賛同しつつも、その運用にあたっては慎重に考えなければならない面が多いというのが私の立場です。つまりエビデンスは万能ではないということです。

データに基づいているという意味では、これまでも政策過程でデータが示されないといったことはなく、むしろ非常に多くのデータに基づいて議論が行われてきたと考えています。重要なのは、エビデンスには様々なレベルがあり、昨今のEBPMの議論とは、政策は高次のエビデンスに基づくべきであるとの主張だと考えています。

その中で私が注意すべきだと考えるのは、例えばエビデンスのチェリーピッキング、つまり、つまみ食いといったことです。チェリーピッキングしてしまうと、結局、エビデンスに基づいていないのと同じことになってしまいます。

私は経済学部の教員として、社会の諸現象について考えたり、議論したりするために必要なスキルとして、統計学的なモノの見方を身に付けることの大切さを学生の皆さんに伝えています。必ずしも正規分布の式など、細かな統計手法を把握しなくても、まずは統計学的なモノの見方を身に付けてほしいと思っています。

もう一つ大切なことは、対象となる事象の文脈を理解することです。
社会保障といったテーマに留まらない様々な問題が、日々新聞などで報じられ、議論されていますが、若い人の新聞購読率はとても低いのが現状です。これでは、そもそも社会で何が問題になっているかということ自体が、頭の中に入ってきません。そのため議論に参加しようとしても、議論の論点すらわからないのです。そこで大学のゼミなどでは、まず世の中の様々な制度や施策についての議論に参加できるようになることを目標に掲げています。

世の中で取り上げられている諸問題を議論するためには、まずは議論の共通の土台をつくることが重要です。そのためには、様々な事象について何がイシューなのかというところを見極めることから始める必要があります。そして、それを分析するためのツールの一つとして経済学という学問があるのです。大切なのはやはり自分で学ぶ力です。社会に出て様々な問題に遭遇した際、それを読み解くことができる力を大学で習得しておくことが重要だと思っています。

  • 第42回サントリー学芸賞贈呈式の様子

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経済学部経済学科 酒井 正 教授

慶應義塾大学商学部卒業、同大大学院商学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(商学)。国立社会保障・人口問題研究所研究員、同室長、全米経済研究所客員研究員などを経て、現職。『日本労働研究雑誌』の編集委員も務める。2020年2月に上梓した『日本のセーフティーネット格差』(慶應義塾大学出版会)にて、日経・経済図書文化賞(第63回)、労働関係図書優秀賞(第43回)、サントリー学芸賞政治・経済部門(第42回)を受賞。