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総長から皆さんへ 第18信(10月19日) 元教員・益田勝実を読む

  • 2020年10月20日
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あと数日で、私の著書『苦海・浄土・日本――石牟礼道子(いしむれ・みちこ) もだえ神の精神』という本が、集英社から刊行されます。そこでこの出版の機会に、法政大学文学部教授であった益田勝実(ますだ・かつみ)先生の本を紹介したいのです。その理由は、私が石牟礼道子の文学に衝撃を受け、その後ずっと忘れることができず、折々に読みながら文学の授業でもとりあげたその発端は、益田勝実先生だったからです。そのことを、法政大学について書いた著書『自由という広場』で、次のように書きました。

衝撃を受けた講義とは、益田勝実の授業である。私はこの高名な先生を古代文学研究者として高校生のころから知っていたが、彼が在学中の私に渡した大事なテーマは古代文学のことではなく、水俣のことであった。石牟礼道子の『苦海浄土』を知ったのは、彼の口から出てきた熊本(水俣)方言による『苦海浄土』朗読の際の、言葉の衝撃によってであった。

それを『苦海・浄土・日本――石牟礼道子 もだえ神の精神』の冒頭でも、次のように書きました。

石牟礼道子とは何度も出会ってきた。もちろん一方的に、である。最初は一九七〇年、大学一年生のとき、法政大学文学部日本文学科の授業においてだった。古代文学者で民俗学者の益田勝実(1923-2020)が、その前の年に刊行されたばかりの『苦海浄土―わが水俣病』(講談社)のくだりを、声を出して読み始めたのである。耳に聞こえてくる言葉を追いながら、「これも文学か。この世にこういう文学があったのか」という驚きが湧き上がっていた。(中略)耳に響いてくる、方言を基調にしたその言葉は圧倒的だった。いったいなにが、まだ一八歳だった私を揺り動かしたのか。それがずっと心に引っかかっていた。

私は法政大学で、教師も含め多くの人と出会いました。人との出会いは本との出会いでもありました。友人たちからは、今まで読んだこともないような本を教えてもらい、教授たちからは、教授自身の著書と授業を通して、想像もしていなかった世界が開けていきました。そのことが後に江戸文学を専門とする道につながり、江戸文学以外の本を執筆する機会にもつながったのです。皆さんがいま出会っていることが未来にもつ意味は、まったく予見できないはずです。埋もれてしまうかも知れないし、決定的な意味をもつかも知れません。予見は必要ありません。ただ、心惹かれることがあれば、それはあなたにとっての意味がある。だから真剣に注意深く取り組んでほしいと思います。皆さんの年代で読む本は、たとえ理解できない本であっても、なんとか「わかろう」と集中して読むことで、記憶の深いところに鮮明に残ります。残すためには漫然と読むのではなく、ノートを作ることをお勧めします。引用し、それについて考えたこと感じたことを書いておくだけで、あなたの一部になります。

益田勝実先生は『源氏物語』、『古事記』、記紀歌謡を中心に、中世の語りものや説話にまで及ぶ範囲を研究していた研究者です。民俗学、国語や古典の教育方法についても、多くの著書があります。私が最初に読んだのは、高校の現代国語の教科書に載っていたヤマトタケルについての文章でした。深く心に残りました。これは『火山列島の思想』(講談社)の「王と子」に入っています。益田勝実先生の著書は現在、ちくま学芸文庫『益田勝実の仕事』全5巻に収められています。この全集は2006年の毎日出版文化賞を受賞しました。編集したのはやはり本学の日本文学科の教授であった天野紀代子先生と、本学の大学院でも教鞭をとられていた東京大学名誉教授の鈴木日出男先生です。たいへんすぐれた全集です。文庫ですので、ぜひ手にとってみてください。

代表作は『火山列島の思想』でしょう。『益田勝実の仕事』の第2巻に入っています。この本には、驚くべきことがたくさん書かれています。たとえば「日本の神々のことを考えるには、その所有者たちのことも考えなければならない。(中略)日本の神は、個々に人に所有されていた段階がある」――このくだりを書くにあたって益田勝実は、自分の体験から始めています。彼は長いあいだ出雲の国譲りの最期を不思議に思っていました。あるとき「わたしは、肩で深い茅を分け分け、背中の荷の重みに喘ぎながら、月夜見山の西尾根の登りを進んでいた」そうです。そしてツキヨミの神、ヒジリの神について考え続けていたのです。突然<あっ、出雲のコトシロも、・・・>とひらめく。「日本の神々のことを考えるには」のくだりは、その直後に出てきます。「神の私有形態」「神聖家族」という言葉で説明されていることは、「神」と「神の代(しろ)」の関係のことです。

私はここで、日本の古代文化論を論じるつもりはありません。気づいてほしかったのは、益田勝実が頻繁に「わたし」という主語を使って書いていることです。学問の世界では、これはタブーのひとつです。しかし、私は大学院在学中、師の廣末保(ひろすえ・たもつ)からも、それを禁じられたことがありませんでした。そのころの法政大学の日本文学科では古典文学者でさえ、「わたし」という主体が文学上、民俗学上、歴史上のさまざまな現象に驚き、心ときめき、探求し、考え、それを「わたし」として表現することが許されていたのです。益田勝実は神話や古典文学について、先人の言うことを鵜呑みにすることはなく、常に疑問に思い、毎日考え続け、謎を解き続けていました。

別の個所でもこう書いています「わたしが皇子・童子にぶつかったのは、これまで、たった一度であった。それから実に長い間、わたしはかれの消息を尋ね回っている」――こう始まる「心の極北」では、醍醐天皇の三十九番目の子どもが「童子」と記載され、にもかかわらず「白髪」と表現されている「謎」を解こうとしているのです。その結果、自ら元服を拒否し続けて老いた二人の皇子に行き当たります。まるで、ノーベル賞作家ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(集英社)の主人公オスカルみたいです。ナチズムの時代、オスカルは3歳で成長を自らやめたのです。

また「偽悪の伝統」という章は、こう始まります。「わたしの心の中に、ひとかけらでもかれらと共通の因子があったなら、わたしはこれほどまでにかれらを恐れはしないだろう。わたしは、(中略)所詮、偽善者にすぎない。(中略)ところが、かれらはそうではなかった。自分をつねに背教者として陥れつづけた。そして、世の人を欺くことに成功したばかりでなく、みずからをも欺くことに成功した。(中略)ふしぎな時代のふしぎな人たち!」――なぜ人は研究者になるのか。益田勝実の文章を読んでいると、それがわかります。世界は謎に満ちていて、とてもスリリングで、少しでもわかりたいと思ったら、自分をとめることができない。研究者とはそういう人たちです。文献に価値を置き、科学的、客観的な方法を道具にする。それは学問、研究にとって当然のことです。しかし、なぜ「わたし」は研究するのか? その問いがなければ、研究は続かないのです。

「謎」は社会にも向けられます。益田勝実の『源氏物語』論は、書き手が住まう社会と階級と、そのなかでの女性のありかたについて語っています。いわく「女性が真に個人であり得た一瞬も歴史上にはなかった」と。その女性たちのなかでも、清少納言が宮仕へ女房の世界に暮らす人であるのに対して、紫式部は中級官人である受領(ずりょう)の娘でした。そこで、「上代女流文学の精神の真の母胎は、家の女性たち」つまり受領家の女性たちの世界である、と喝破したのです。つまり自分たちとはまったく異なる宮廷と上流貴族への想像力は、受領家の娘たちの世界にこそあった、と。ここにも紫式部の「わたし」の視点を読み解こうとする考えが見られます。誰が書いても同じ、なのではなく、受領家の女性たちの夢想の中でしか書けない物語がある、ということなのです。「わたし」の視座を抜き取ったら文学は成り立たない。その確信があらゆるところに行き渡り、その迫力が学生と読者に大きな影響を与え続けてきました。

冒頭の私の著書『苦海・浄土・日本』に戻ります。益田勝実先生はこの石牟礼道子という人に、古代の語り部を発見したに違いない、と今は思っています。人々の苦しみの声を聴き分け、寄り添い、代弁する人。そういう人を「もだえ神」と言いました。神および神の代は、その奥にある大自然の代行者、代言者なのです。私が法政大学で出会った石牟礼道子。その論である『苦海・浄土・日本』は、私を含め5人の法政大学の校友(卒業生)で作りました。石牟礼道子論をまとめませんか、と声をかけてくださった集英社の伊藤直樹さん。総長のスケジュールのなかで集中して書く時間がとれなかった私を、ディスカッションした部分をまとめるという方法で助けてくれたフリー・ライターの宮内千和子さん。彼らは法政大学の校友です。それだけではありません。「総長から皆さんへ」第10信で著書を紹介し、法政オンラインで対談した本学卒業生の渡辺京二さんは、石牟礼道子を世に出した編集者であり、生涯執筆をサポートし、最期まで献身的に作品を支えた人です。やはり本学卒業生で社会学部教授の小林直毅教授は、私を水俣に導き、取材を助けてくれました。このように、多くの校友とともに、この本ができました。皆さんも今の同窓生や先輩後輩たちとのつながりが、将来どういう創造につながるか、わかりません。どうか誠意をもって語り合い、良い友人になってください。

今回は益田勝実先生の著書を紹介し、研究者というスリリングな仕事について書きました。それに導かれた私の著書も、ついでに記憶にとどめてくださいね。
 

2020年10月19日
法政大学総長 田中優子