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総長から皆さんへ 第12信(6月22日) 卒業生・吉田修一さんの著書を読む

  • 2020年06月22日
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吉田修一。押しも押されもしない、正真正銘のベストセラー作家です。文學界新人賞、山本周五郎賞、何度も候補に挙がったのちの芥川賞、毎日出版文化賞、大佛次郎賞、柴田錬三郎賞、芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞。これからもどれだけ賞に輝くかわかりません。そのなかで、柴田錬三郎賞を受賞した『横道世之介』(文藝春秋)という小説があります。

『横道世之介』は法政大学と法政大学の学生がモデルになっていて、映画化のときは大学とその周辺もロケで使われました。『続・横道世之介』(中央公論新社)も、吉田さんがそうだったように、主人公は法政大学経営学部と思われる大学で勉強したことや、そのときの親友が出てきます。ちなみに『パレード』(幻冬舎)という同じ部屋に暮らす5人の主人公が交替しながら語る小説では、杉本良助という登場人物がH大学経済学部3年在学中です。

「一九八〇年代当時の大学生の多くが、世間的な出世をめざして就活にいそしんでいた時、世之介は別の道にそれた。そして自らのまなざしを、他の方向へ向けた」――これは私が2016年に『自由という広場』(法政大学出版局)を書いたとき、吉田修一の『横道世之介』について触れた言葉です。吉田さんはその2016年から『続・横道世之介』を連載しはじめ、2019年に刊行しました。この『続・横道世之介』も含め、吉田修一はこの時代に生きる、「別の人間のありよう」「まったく異なる価値観をもった普通の人」を見事に、鮮明に描いたのです。だから彼は「横道」にそれた「世之介」です。世之介とは、井原西鶴『好色一代男』の主人公の名前で、権威や出世など、そういう枠にまったくはまらない「新しい町人」のことです。

横道世之介君は皆とは違った道を歩みながらも、世の中を見下すどころか、自分を横において他人のことしか考えません。「超」がつくほどポジティブな人なのですが、それは自分の将来や利益についてではなく、人との出会いや、自分が誰かの力になれる、という意味で楽観的なのです。「人生などというものは、決して良い時期ばかりではない。良い時期があれば、悪い時期もあり、最高の一年もあれば、もちろん最低の一年もある。・・・・・ダメな時期はダメなりに、それでも人生は続いていくし、もしかすると、ダメな時期だったからこそ、出会える人たちというのもいるのかもしれない。」(『続・横道世之介』)とつぶやくような人です。

2001年1月26日、JR新大久保駅で線路に転落した男性を助けようとして二人の男性が亡くなりました。韓国人留学生の李秀賢氏とフリーカメラマンの関根史郎氏です。韓国人の留学生が話題になり関根さんは目立ちませんでしたが、横道世之介のモデルは、その関根史郎氏です。何があっても「大丈夫、助けられる」と思って、とっさに人を助けてしまう。今ではまれになったそういう人物を、吉田修一は「これからの人」として造形したわけです。

吉田修一の書き方の特徴は、主人公の頭の中をトレースしながら言語化していくことです。人は目の前に見ていることに触発されて、連想や記憶が頭に浮かび、それがどんどん連なっていくことがありますね。吉田修一の小説ではストーリーと関係なく、よくそれが起こります。例えば『パーク・ライフ』(文藝春秋)では、日比谷公園で見たスターバックスのカップからニューヨークの街角やそこで出会った人にまで広がり、それによって主人公がどういう生活をしてきたかが読み取れます。しかしそれはストーリーと関わるのではなく、いわばアート作品の空間に、別の色や形が配置されていて、それらも一緒に鑑賞してしまう、という感じです。

もうひとつは、やはりストーリーとは関係なく、別の出来事が次々と言葉に掬い取られて出現する特徴があります。『悪人』(朝日新聞出版)という小説は、ある殺人事件が主題になっています。その題名のとおり「悪人」とは何かがテーマなのですが、言い換えれば「ほんとうの悪人は誰なのか」を考えてしまう小説なのです。例えば、殺された女性をその殺人の前に、山道で車から蹴りだした男性がいる。その人は何の罪にも問われないばかりか、殺された女性を笑い者にします。また、母親に捨てられた主人公祐一を育てた祖母房枝が、高齢者を狙う詐欺師に脅迫されるシーンが何度も出てきます。言葉の暴力で人を恐怖に陥れ、縮み上がらせてものを売ろうとするのです。これは主題の殺人事件とはまったく関係ありません。しかし、この小説のテーマ「ほんとうの悪人とはどういう人か」という問いに関係します。『パーク・ライフ』と同様、ストーリー上ではなく空間に、「ほんとうの悪人」が何人か配置されています。実際に殺人を起こして逮捕される青年は殺人者には違いないのですが、別のところに配置された悪人たちとともに俯瞰することで、読者には「この殺人者はほんとうに悪人なのか?」という疑問が生まれます。マスコミやSNSでは、誰かが罪を犯すと裁判が終わらないうちから悪人と決めつけることがよく起こります。しかし本来私たちひとりひとりが、「ほんとうの悪とは何か?」という問いを持ち続けるべきですね。

吉田修一の「出会い」についての考え方も面白いと思います。『悪人』のように「出会い系サイト」で関わる人々、『横道世之介』『続・横道世之介』のように「助ける」ことで知り合う人々、『パーク・ライフ』のように都会の地下鉄や公園という匿名空間で全く偶然に関わる人々。昔からの友人ももちろん出てくるのですが、偶然知り合うことで、そこから物語が生まれます。出会いは自分自身の物語の出発点です。世之介が言うように「ダメな時期だったからこそ、出会える人たち」もいて、失望や悲しみや欠点がなければ出会いもありません。ちなみに、本との出会いも出会いのうちです。

ところで私は『自由という広場』の吉田修一論を、以下のように結びました。「希望を撮り続けたカメラマンは、「大丈夫、助けられる」と思って線路に飛び込んだ。そういう世之介に自分を重ねた吉田修一。私はこのことを思い巡らしている時に、吉田と世之介が、ある人とぴったりと重なった。二〇一五年一月三〇日、シリア領内で殺された後藤健二である。」

この事件のとき私はすでに総長でしたので大きな衝撃を受け、誘拐・拘束から殺害に終わるまで事件を見守り、その後、HP上でメッセージを発信しました。

吉田修一とほぼ同性代で同じころ法政大学に在籍していた後藤健二さんは、まるで世之介のように正社員を3か月で退職してジャーナリストとなり、最後は、拘束されている友人を救出するためにシリアに入って殺されたのです。著書『ダイヤモンドより平和がほしい』(汐文社)はアフリカ西部シエラレオネの話で、5000人以上の子供が兵士にされている現状を、子供たちに向けて書いています。亡くなったあと、この本と『エイズの村に生まれて』『ルワンダの祈り』『もしも学校に行けたら』の4冊が「ジャーナリスト後藤健二ノンフィクションシリーズ」(汐文社)として刊行されています。ぜひ卒業生・後藤健二さんの本も読んでみてください。世界が広がります。

2020年6月22日
法政大学総長 田中優子