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卒業生インタビュー:車いすフェンシング日本代表 河合 紫乃さん

  • 2022年09月08日
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プロフィール

河合 紫乃(Kawai Shino)さん

1992年富山県生まれ。2014年キャリアデザイン学部を卒業後、北國銀行バドミントンチームに入部、S/Jリーガーとなる。2018年に車いすフェンシングに転向、アスリートモデルも務める。2020年4月より株式会社富山環境整備に所属。

自分で選んだ道を、自分らしく歩むそれが私の輝き方

学生時代も社会人になってからもバドミントン選手として活躍していた河合紫乃さん。手術の後遺症で左脚が麻痺し、車いす生活となりましたが、大学時代の仲間が活躍する姿を目にして、再びスポーツにチャレンジする決意をしたと言います。

車いすフェンシングの醍醐味はスピードと駆け引き

車いすフェンシングの日本代表として、2024年のパリパラリンピック出場を目指しています。車いすのフェンシングは、車いすを固定してプレーするため、後ろに下がることはできません。常に相手と至近距離で剣を突き合わせるので、まばたきが命取りになるほどのスピードと高い集中力が求められます。また、フェンシングの醍醐味は相手との駆け引きや心理戦にあって、その部分では、以前バドミントンで培った勘所を生かせています。

選考レースへの乗り遅れや、コロナ禍の影響で国際試合が相次いで中止になったこともあり、東京2020パラリンピック大会への出場はかないませんでした。その当時はとても悔しかったですが、今は、開催国枠で何とか出場できたという形でなくてよかった、自力でパリ大会への出場をもぎとって堂々と戦いたい、という思いでトレーニングに励んでいます。

以前は、一定以上の圧力で相手を突かないとポイントが得られない種目「エペ」をメインとしていましたが、私は骨や関節が弱く、体への負担を減らす意味もあって、剣がより軽く、相手に触れただけでポイントを得られる「サーブル」へ転向中です。車いすフェンシングをやろうと考えた時から、法政大学のフェンシング部出身の方にはいろいろお世話になっていて、現在も、二度オリンピックに出場している長良将司さん・円さんご夫妻にサーブルの指導を受けています。

レストラン用野菜の一部。夕方に出荷されたものが、翌日のランチやディナーで提供される

2019年11月に行われたワールドカップオランダ大会に出場し3勝を挙げた(左が河合さん)。オーダーメードの車いすを、床に固定して戦う

バドミントン一色の大学4年間

小学校からバドミントン中心の生活で、大学でもトップレベルの環境で競技を続けたいと考え、スポーツ推薦で法政大学に入学しました。レベルも意識も高い仲間に負けないように練習に励んでいましたが、1年次の夏に股関節を痛め、手術を受けました。2年にわたるリハビリ期間は、ライバルに遅れをとる不安、練習できないストレスに押しつぶされそうでした。4年間という時間を与えてくれた周囲の期待に結果を出して応えたい、その一心で競技に復帰し、インカレの団体戦で優勝を果たした時に味わった感動は、今でも忘れられません。

それでも、大学で「やり切った」という感触を得られなかったため、子どもの頃から憧れていた実業団選手になる道を選びました。ところが、全日本選手権大会を目指す中、再び股関節を痛めて手術をすることになったのです。

6週間で練習に復帰する予定でしたが、手術は数度に及び、その後遺症で左脚が麻痺し、自分で動かせない状態になりました。いきなり歩けなくなり、バドミントンも仕事も失ってしまい、誰にも会いたくない、バドミントンなんて見たくも聞きたくもない、そんな日々が2年近く続きました。

300品種の栽培場所と状況は全て須永さんの頭の中。朝から晩まで一日中、見回りと作業が続く

モデルとしてファッションショーにも登場。現在はフェンシングに専念しているため、休業中

再び前を向かせてくれた二つの出来事

そんな時テレビで目にしたのが、車いすに乗ったモデルさんです。その笑顔がとてもすてきで、「この状態から抜け出せるきっかけになるかもしれない」とモデルに挑戦してみたり、一人暮らしを始めたりしました。撮影でその方とご一緒する機会があり、どうして笑えるのかと尋ねたら、「時間がたてば分かる。もう少しの辛抱だよ」と言われたのです。

その時は理解できませんでしたが、今なら分かります。自分の状況を受け入れられれば、明るく笑って前へ進めるのだと。脚の悪い私が車いすを使うのは、視力の悪い人が眼鏡をかけるのと同じこと、いつの間にか自分を障害者とは思わなくなりました。

そして、スポーツへの情熱に再び火を付けてくれたのが、大学で共に学生日本一となった田中志穂さんでした。彼女が世界大会で優勝した姿を見て、「もう一度輝きたい。私が自分らしく生きるにはスポーツしかない」という思いが込み上げてきたのです。

自分で選んだ道を自分らしく進んでいく

周囲には、私の挑戦を不安視する声もあります。私自身、全てを受け入れられたわけではなく、正直言って、焦りや障害への葛藤もあります。それでも、一度きりの人生、自分がやりたいと思うことをやり、結果を出して自分の選択が間違っていなかったことを証明するしかないと思い、今はフェンシングに人生を懸けています。

バドミントンでもかなり努力をしていたつもりでしたが、今のフェンシングへの覚悟や意気込みはそれとは比べものになりません。競技を続けられるようにクラウドファンディングで資金を募る、多くの人に応援してもらえるようにメディアに売り込むなど、自分から状況を変え、動かしていくようにもなりました。

今年の11月には、パリパラリンピックの選考レースがスタートします。2024年にメダルを獲得できたら、「障害者になっても自分らしく生きられる、輝ける」と言い切れる。そう信じて、たくさんの方の力を借りながら、「紫乃の道」を歩んでいるところです。

 

(初出:広報誌『法政』2022年6・7月号)