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総長から皆さんへ 第15信(7月28日) 教員・島田雅彦の小説を読む

  • 2020年07月28日
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English (by Google Translation)
 

国際文化学部の島田雅彦教授は、世に知られてからもう40年近くを経た作家ですので、「先生」とか「さん」とかつけません。「島田雅彦」と呼ばせていただきます。この新型コロナ禍のなかでこそ、島田雅彦の小説は読むべき作品だろうと思います。なぜなら島田雅彦は、現代社会への憤りと危機感に満ち溢れながら、独特のユーモアと軽みをもった稀有な作家だからです。その作品世界は多くの歴史的事実や今の現実を素材としていながら、パラレルワールドにいるような不思議な気分にさせ、同時に、すぐそこの危機的な未来がかいま見えてぞくっとする作品世界です。

エッセイもたくさん書いていますが、やはりこの作家の本領は小説です。基本となるテーマは「格差社会」と「資本主義」、そして「恋」です。お金に振り回される人間とその社会のありようを、洒落のめしながら書き続けています。しかしだからといって、その反対概念は共産主義や社会主義ではありません。金銭に振り回されない社会の構築はどうすれば可能なのか? そこから脱却するのにはどうすればよいのか? しかしその方法は、そう簡単には発見できません。たとえば『悪貨』(2010年 講談社)では、金融資本のもとになるドルや円ではなく、新しい地域通貨を流通させることによって、人々が自ら生産しながらお金に縛られない社会を作ろうともくろみ、作った人しか区別できない偽札を大量にまぎれこませ、日本にインフレを生じさせようとします。しかし結局、それは大国の思うつぼとなり、犯罪者として自滅します。ではいったい、この金融資本社会はどうすれば変えられるのか? ついそれを考えてしまう作品です。

『徒然王子』(2008‐2009年 朝日新聞出版)という日本の神話・伝説・歴史総動員の小説があります。この主人公はテツヒトという名で、「この森」に住んでいます。テツヒトはすぐにわかるように、ヒロヒト(昭和天皇)、アキヒト(現上皇)、ナルヒト(現天皇)の「ヒト」という音を借りているわけで、架空の皇太子です。そのテツヒトの友人でありかつ忠実な家臣はコレミツと言います。彼は『源氏物語』に登場し、光源氏の乳兄弟として常にそばにいる藤原惟光から着想を得た人物です。この物語は極端な格差社会となった日本を舞台としていますが、それはほんの少し先の日本のように思えます。貧者たちが暮らす、東京郊外のテーマパークの廃墟が、王子が身を隠す場所になっています。その廃墟の描写は、あしもとまで来ている未来の日本です。2011年の東日本大震災、2020年の新型コロナ時代を経ていなくとも、島田雅彦のまなざしには、日本がやがて迎える極端な格差社会が見えていたのです。

王子は自分の前世を体験する旅に出ますが、これは仏陀の『ジャータカ(前世物語)』であり、仏陀がそれを通じて人間の苦しみをとことん知り悟りを開くことに対応しています。旅にいざなったのはゴダイゴという幽霊ですが、これは明らかに天皇でありながら革命を起こそうとして南北朝分裂の元となった後醍醐天皇のことです。自らの意志と軍隊をもった最後の天皇です。ちなみに、王子は宮殿を去るにあたって、王と王妃にそれを打ち明けます。王は王子を引きとめず、「やってみるがいい。「もののあはれ」を護ることができるのはおまえだけなのだから」と言います。「もののあはれ」。それは儒者たちによって悪書とされた『源氏物語』に初めて価値を発見した本居宣長が、その核心に与えた言葉です。古典は、その価値を発見する人によって古典となり、日本の文化として蓄積されます。蓄積されたものを、経済最優先の社会に壊されずにどう次に受け渡していくか? 確かにこれも重要な問題なのです。

ところで、なぜ人は前世つまり歴史的過去を知るべきなのか。それは、自分ひとりの経験から人間全体を判断してはならないからです。でも実際には人間は前世や過去を体験できません。「物語」は、その体験をさせてくれる場所です。『徒然王子』で王子が体験する縄文時代、中国古代、日本中世、江戸時代は、前近代の世界がどういう価値観で成り立っていた社会かを見せていて、その全体が、現代金融資本主義への痛烈な批判になっています。『徒然王子』はまさに『ジャータカ』やダンテの『新曲』や古今東西の物語を総合した「日本の物語」です。島田雅彦という作家は、近現代小説の視点からはとらえきれない「物語作家」の側面をもっているのです。

日本の物語、和歌俳諧、もののあはれ、そしてそれらによって永遠に運ばれる「恋」。それらを護ることができるのはいったい誰なのか? 文学者か、作家たちか? 私が読んだところ、島田雅彦は、それを護るためには、その担い手についての「物語」を編むことが必要だ、と考えているのです。そこで彼はその担い手たちの物語を編みました。ひとつが先述した『徒然王子』ですが、もうひとりの担い手をやはり皇室に設定したのが、最新作『スノードロップ』(2020年4月 新潮社)です。たいへん過激な小説です。スノードロップとはマツユキソウという真っ白な花です。不二子と名付けられた女性の、インターネット上のハンドルネームです。不二子の一人称で書かれるこの物語は、彼女が心の病にかかっていることから始まります。その原因は不二子が「人権」の埒外にあって自由を束縛され、苛烈な男尊女卑の組織内に生きていることでした。彼女は秘書を雇います。それが、首相と仲の良い元放送局の幹部にレイプされ、そのことを実名で告白した女性です。ジャスミンというハンドルネームのその秘書は、発信者が追及されないダークネット上にスノードロップの発言場所をつくります。スノードロップは次々と自分の意見を発信します。ジャスミンとスノードロップの行動は、女性たちによる男性社会への復讐に見えます。ところでスノードロップは政治的権力を持ちませんが、夫とともに国の代表として多くの国の首脳たちに会う立場にいます。通訳に聞こえないように相手に言うべきことを言うのも、彼女が自分に課した役割でした。

島田雅彦の素材のひとつは歴史および歴史観です。たとえばこの作品には、日本が日露戦争に勝ったその背後にいたユダヤ系アメリカ人銀行家ジェイコブ・シフの名前も出てきます。日本が敗戦国として、今でも実質的には米国の支配下にあることは周知のことですが、その始まりは太平洋戦争終結時ではなく、日露戦争開戦時であったことが、この歴史観のなかでは延べられています。近代日本とは何か、今の政治家たちは米国とのあいだにどのようなつながりがあるのか、それを根底にしてスノードロップが最後に何をしかけていくのか。とてもスリリングです。私が共感するのは、日本社会がもっている、女性へのまなざしのむごさです。それは日本が置かれている米国との関係に通じるものがあります。それが怒りとともに書かれています。胸のすくような小説です。

『スノードロップ』の背景には、『彗星の住人』(2000年 新潮社)『美しい魂』(2003年 新潮社)『エトロフの恋』(2003年 新潮社)という「無限カノン三部作」と名付けられた作品群があります。これを島田は三島由紀夫の「豊饒の海・四部作」になぞらえています。『スノードロップ』は無限カノン三部作の最後に書かれた四作目となり、これで四部作が完成したのです。この四部作すべてに通っているひとりの女性、それが誰なのかは読んでみてください。誰もが知っている人です。ちなみに『彗星の住人』は『Jr.バタフライ』という題名でオペラ化され、イタリアで上演されました。この作品群では、蝶々夫人のモデルになった女性がどういう運命をたどったか、という歴史も組み込まれているのです。これも、支配と差別の物語です。

島田雅彦は皆さんと同じ大学生のときに書いた『優しいサヨクのための嬉遊曲』が芥川賞候補になって以来、ずっと作家活動を続けてきた人です。神話、物語、歴史、政治、外交史、オペラをはじめとするクラシック音楽など、多くの引き出しがあり、それだけ読みごたえがあります。しかしジョークが多いせいか、あるいは、権威化や固定化された語彙をあえてカタカナ表記して意味を抜き取ってしまうせいか、軽い作家とみなされています。彼自身も、自分は純文学作家ではなく、三島由紀夫のようなエンターテイメントの作家だと言っています。私は大学のゼミで三島由紀夫を扱った機会にそのほとんどを読みましたが、面白かったのは小説ではなく『近代能楽集』のような戯曲でした。三島由紀夫は戯曲の人だと思います。皆さんは、島田雅彦から三島由紀夫に導かれる、という道もあると思います。ある作家を読むと、別の作家につながっていく。これも、本を読むことの醍醐味です。

島田雅彦は7月31日から、東京新聞朝刊で毎日、新作「パンとサーカス」を連載します。

2020年7月28日
法政大学総長 田中優子