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総長から皆さんへ 第16信(9月18日)  言葉を寄せてくださってありがとう

  • 2020年09月18日
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English (by Google Translation)


7月31日の「総長から皆さんへ」では、皆さんからこのページへの感想、コメント、提案を募りました。多くのかたが言葉を寄せてくださいました。心から共感すること、とても参考になる提案、考えさせられたこと、すぐにでも応えたいことなど、心を動かされる言葉が多く、意見を募って本当によかった、と思っています。

表題で「感想、コメント、提案、意見」と言わず「言葉」とあえて書いたのは、「このページへの」感想や提案ばかりではなかったからです。大学に来られない悲しみ、授業料をおさめていながら施設を存分に使えない苛立ち、相談してもうまくいかなかったくやしさなど、感情のこもった「言葉」がぶつけられてもいました。世界全体の状況とは言え、世界に対して言葉を投げるつけるわけにもいきません。ぶつける相手は自分の所属している大学や、意見を募った総長、ということになります。それでいいのです。それこそが「居場所がある」ということだからです。大学は皆さんの居場所です。私自身も、大学が皆さんにとって居場所でありながら「来られない居場所」であることに、とても歯がゆい思いをしています。すでに9月1日に発信したように、状況を見ながらできるだけ多くの対面授業を開きたいと思っています。

いくつか、心に響いた言葉を紹介します。

  • 大学に受かった当初は、東京に出て人生を変えるような出会いに大きく期待していた人も大勢います。オンライン授業ではこうした「出会い」が全くありません。私たち若者はインターネットに関して、大人達よりもその信頼性の無さを知っています。画面越しの授業で、友人が出来たとしてもそれは「信頼」という面において、実際に会って意気投合したような友人には敵いません。
     
  • 私たちが大学で学ぶ理由は、人生を豊かにするためです。だけれど、学ぶことだけでは人生は豊かにならないとも思います。私は、「学び」を生活の中の些細な面に活かして初めて人生は豊かになると考えます。しかしこのような状況では、学私たち学生は「知識」ばかりを抱えた頭でっかちな人間になってしまいます。知識しかもっていない人は、品性に欠けています。私たちは「大学」という所で学び、知識を得て、礼儀や品性を身につけたいと思っています。
     
  • 対面授業とオンライン授業の併用をする際には、登校を完全「任意」とし対面授業を録画し、オンデマンド型にして流すということを私は提案します。対面にした際、家族に高齢者が居て感染リスクを負いたくない人も出てくると思いますし、逆に東京一人暮らしで、新しい出会いに胸を膨らませている生徒もいると思います。各々の生徒が、自分に一番あった選択をできるように、このような方式が良いと思います。
     
  • 1回でも2回でもいいので対面授業を受けたいです。対面からオンラインに切り替わる時、がっかりはすると思います。ですが1度でも対面授業が受けられたというモチベーションになります。また、また半年オンライン授業、対面授業を受ける機会はないと分かって授業を受けるよりも、対面授業を受けられる可能性があると思って授業を受ける方が授業に対するモチベーションがかなりあがります。私は対面授業を受けたいです。仲間と直接話し合いたいです。そこで考えを深めたいのです。
     
  • 私は昔読書が好きでした。しかし、高校受験、大学受験を意識するうちに必要最低限にしか読まなくなりました。しかし、さまざまなお話を通して、本を読むことの大切さを再認識することができました。夏休みは本を読みたいです。 いつか、文章ではなく、生のお話を聞きたいと感じました。
     
  • 多摩キャンパスは教室や図書館が広く、使いやすいことやパソコンや食堂が整えられていて素晴らしい点もあります。しかし、多くの人がそれに気づかず、宝の持ちぐされに感じます。特にバスを使うことや周りが学生街ではなく、大学以外の他の人との交流が少ないことが原因と思います。
     
  • 尾道に降り立ったときに、街で会ったおじさんから「法政の学生か、それで旅行が好きならば内田百閒を読むと良いよ」と言われたことを思い出しながらこの記事を読んでいました。オンライン授業になって、先生方も苦労されているのか、対面のときにあった”脇道に逸れる”話がなくなってしまったのは残念です。
     
  • 社会学や民俗学の本も読むことが増えました。最近は、土地に対してそこに住む人々は外の人々にどのようなイメージを持つのか、そこに距離はどのように関わるのかについて、以前より意識的に考えるようになった気がします。そういう経緯もあって、七月に思い立ち、京都のとある古本屋さんへお願いして、2週間、本屋の二階に居候させてもらい、ちょっとした本を作りました。移動とか親しみのある地域って一体なんなんだろうと考えさせられることが増えていました。そこで、学生の街として知られる京都は、実際どう形作られてきたのか気になったのです。60-70年代の学生たちの動きが鍵になっていることがわかってきました。まだ喫茶店のなかった時代に、何か悶々とした学生が,放浪者の大人が,楽器を持った学生が集まって、街の中に生まれていた空き家を地主に交渉して改築し運営、のちに京都を代表するライブハウスとして知られるようになるところです。そうした、自分たちの居場所を作る動き、曖昧な集団が出来上がる場所を求める動きがあったようなのです。そこで学生同士が出会い、バンドを組んだり表現集団を作ったりしていったようなのです。上手いやり方で我々も、現代なりに、混沌の中から表現が生まれるような環境が作れれば良いなと思っているところです。そういう未来の活動のヒントとして、今回だったら1970年代の京都のような歴史を振り返ってヒントにしてみる、そういう意識が必要なんだろうなと思います。今はオンラインなので、授業もある意味どこでも受けられる状況なので、感染対策をしながらいろいろな街を記録して、自分の感覚や意識が少しでも言語化できるようになればよいなと、そしてそれを共有できるようになったら良いなと思っています。とはいえ、大学で授業を受けられるようになるのを願うばかりです。
     
  • コロナ自粛中に、ずっと学ぶのが夢だったCGを独学で学び始めました。コンテストでは、法政大学3キャンパスを舞台にした大規模なCG作品を作って出典しようと思っています。全3キャンパスを舞台にしたのには、コロナの中の今こそ、3キャンパスが一つになる必要があると思ったからです。
     
  • 部活動や就活に不安を抱いておりましたが、言葉に表すことで自分を知り、あらゆる可能性を検討し、今後の不安要素や自身の強みを深められました。また、先生や同年代の仲間から共感や指摘の言葉を受け、視野が広がったことを覚えています。これは今思えば、言葉を通して反脆弱性を得られた経験だったのかもしれません。この経験が生かされ、コロナ渦でも諦めることなく、入社したい企業から内定をいただき、部活動が停止しても競技に必要な心身の状態を維持できています。危機に直面した時に弱るのではなく、多くの選択肢を想像し実現する力は必要なのだと学生ながら感じました。私なりの自由を生き抜く実践知を得られた期間でした。
     
  • 第一信、石牟礼道子『苦海浄土』に、昔の記憶がよみがえり、今こそ「現実の観察と内面への想像力、両方が必要であること」が大切と思われました。第三信、パオロ・ジョルダーノさんは、最近日本のマスコミにも登場されて、自然破壊についてお話しされています。コロナの後は、どのような未来にしたいのか。すべてのことの真意が問い直されているのです。

紹介したい言葉がたくさんあって、つい長くなってしまいました。対面授業、ゼミ、フィールドワーク、さまざまな学内活動、留学などによって、皆さんが多様な人々と関りを作り、そこから学んでいることの重要性と価値を、私も春学期のあいだに改めて痛感しました。大学は学生と教職員の居場所であるとともに、「自由という広場」なのです。可能なかぎり対面授業、対面活動を大切にしていきたいと思っています。対面とオンライン・オンデマンドの組み合わせについては、学生が各々「自分に一番あった選択をできる」方法が、私も理想だと思っています。それが難しい理由はいくらでも挙げられますが、今は、どうすれば可能になるかを考えたいと思います。「いつか、文章ではなく、生のお話を聞きたい」という言葉がありました。私も入学式や卒業式だけでなく、皆さんに直接語りかける機会を持ちたいと、就任以来ずっと望んでいます。それについても、難しい理由はいくらでもありますが、どうすれば可能になるか考えたいです。

多摩キャンパスの抱えている課題については、私は社会学部の教員ですので、もちろん皆さんの気持ちをよく理解していますし、その解決に向けてこの6年半、あらゆる選択肢を検討してきました。そもそも移転の経緯が政府の方針であったことは、ご存知だと思います。大学町にならなかった理由は、そういうところにもあります。しかしコロナで都心と郊外の価値は逆転する可能性があります。多摩キャンパスの緑豊かな環境は確かに大学が保全してきた宝です。そして3キャンパスすべての学生のものです。今後、オンライン・オンデマンドと対面授業を併用した新しい日常が定着したとき、むしろこの素晴らしい環境を「居場所」にしながら、他キャンパスの授業を履修することも可能になるでしょう。履修のための大学から居場所としての大学へ、発想を転換することも大切だと、私はこの数か月で改めて思うようになりました。

古本屋の2階に居候して本を作るなんて、なんと創造的で素晴らしい過ごし方をしたのでしょう。この文章に接したときには、とても良いエッセイを読んだ心持ちでした。私も1970年代の学生でした。確かにその時代、学生の町である京都には東京と異なる文化が生まれました。洒落ていてユーモアにあふれた文化でした。居場所を与えられるだけでなく、自ら居場所を作るのが大学生だった。それに気づくことができれば、どこにいても、自分が落ち着いてものを考える場所を作ることができますね。

この機会を、自分なりの独学をする時間に使った人もいるのですね。しかもそれを、表現につなげようとしている。あるいは、言葉に表現する習慣をもったことで、自分を知り、「反脆弱性」を獲得できたかたもいたのですね。こういう状況下であるにもかかわらず、良い時間にしていった人としての真の強さに、心打たれました。そして、私からの読書についての発信を、そのまま受け止めて感想を書いてくださったかたもおられました。

もちろんなかには、SNSにありがちな罵倒のような言葉や、「~しろ」という命令口調の言葉もありました。辛辣に批判しようと努力している言葉もありました。なるほど皆さんにとって大学は確かに居場所なのだ、と思いながら、それらもすべて読み、受け止めています。とまどいも憤りも怒りも、思想の根源です。大切にしてください。しかしできればそこにとどまることなく、「考えること」「対話すること」につなげていってください。

書いて届けてくださった皆さん、書けなかったけれど考えるきっかけにしてくださった皆さんに、もういちど、心より感謝します。なお、大学としてすぐに対応すべきことは、個別に検討に入ります。そして次回からはまた、読書案内を再開したいと思っています。

2020年9月18日
法政大学総長 田中優子