PickUP

総長から皆さんへ 第6信(5月11日) 内省のとき

  • 2020年05月12日
PickUP

学生の皆さん、いよいよオンライン授業が本格的に始まりました。初めてのことを自力でなんとか実行していかねばならない、近くに助けてくれる人がいるとは限らない、という状況のなか、ひとりでこなさねばならないのは、とても骨の折れることだと思います。そのことを教員も職員も、たいへん気にかけています。すでに様々な支援をお知らせしていますので、申し込んだかたもおられるでしょう。うまくいかないこともあるかも知れませんが、デジタル・ネイティブとして生まれ育った皆さんがすでに経験しているように、インターネットの世界は自力で調べ論理的に考え、粘り強く試行することで、確実にアクセスと応用の力がついてきます。インターネットでどこまで何ができるか? この探求は読書や内省にも似て、内部が広がっていくことを感じるでしょう。

しかしのびのびと外に出ることもままならず、親友にも好きな人にも会えない、ということも、かなりつらいことだと思います。そういう時はつい、「自分はこんなに弱かったのか」「こんなに環境に左右され、こらえ性がなかったのか」と思うこともありますね。しかしこういう時こそ、「自分はどういうことで何を感じ、何を考える人間か?」を考える絶好のチャンスです。

私の経験をひとつ。公立の小学校から私立のカトリックの中学へ入った私は、同級生たちが言葉遣いもふるまいも家庭環境も異なることで、遠い存在に思えました。一学期が終わるころには、誰かが小声でほかの人と話していると「私の悪口を言っているんだ」などと思い込むようになりました。そして夏休みに入りました。休みのあいだ私は皆から離れてひとりになり本を読み、自由な時を過ごしたわけですが、しばらくして「あれは私の妄想だったのではないだろうか」という疑問がわいたのです。そして数か月の自分の姿を、距離を置き順序だてて思い出し、さまざまな推論をしました。そして「妄想に違いない」という仮説に至りました。2学期が始まったとき、私は自分の仮説を試すために自分から何人もの同級生に声をかけたのです。そのときの皆のほっとした、輝くような笑顔が忘れられません。妄想仮説は証明され、私は溶け込みました。その時、物事は論理的に考え抜くことで解決の道が見えてくることを知りました。

これも「内省」の時間があったからできたことです。ひとりになるのは、大事な時間ですね。内省の「省」の字は、「三省」にも使われます。『論語』にこうあります。「曾子曰く、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝えしかと。」毎日、内省するわけですね。今日私は、人を助けるときに真心を尽くしたか(自分の利益だけで動かなかったか)、友人に対し自分を偽らなかったか(人に嘘をついたりごまかしたりしなかったか)、自分がまだ充分身につけていないことを人に伝えなかったか(生半可な知識をひけらかさなかったか)、と。耳の痛いことばかりです。『論語』は江戸時代の私塾の教科書の代表的なものです。実用的な読み書きを習う寺子屋も、学問をする藩校や私塾も、いつ何歳で入ってもよく、いつやめてもよかったのです。学問は就職のためにあるわけではなく、人間として生きるために存在しました。自分は今日一日、人としてまともに生きただろうか? それを自分に問うのが「三省」です。「人としてまともに生きるとはどう生きることか?」それを考え、議論するのが学問でした。

現在の大学が、就職のためにだけあるとは思わないでください。他者の立場に立って手を貸すこと、透明性の高い民主主義社会を作ること、そしてその時代ごとに必要な知識をしっかりと獲得すること。これら人として生きることを学ぶのが、大学です。学問や知識は、自分の外側に教養として身にまとうものではありません。内省しながら自分を作るためのものです。外に向かうことと内に向かうこと。その両方を知るために、今があります。

2020年5月11日
法政大学総長  田中優子