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【法政の研究ブランド vol.5】「食べること」を通して、世界との向き合い方を考える(人間環境学部人間環境学科 湯澤規子 教授)

  • 2021年01月28日
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「法政の研究ブランド」シリーズ

法政大学では、これからの社会・世界のフロントランナーたる、魅力的で刺激的な研究が日々生み出されています。
本シリーズは、そんな法政ブランドの研究ストーリーを、記事や動画でお伝えしていきます。

食という体験を通すと見えなかった部分に踏み込むことができる

私はこれまで食だけでなく、ライフヒストリーや胃袋、そして最近では出すこととしてウンコをテーマに研究を行ってきました。これらは一見、共通性がないように見えるのですが、実は“生きる”という意味では一緒だと考えています。本屋を覗くと、いかに生きるのか、いかに生きるべきなのかを問う本がたくさん並んでいますが、それらは哲学的といいますか、どこか背伸びをしなくては見られないような雰囲気があり、私としてはもっと等身大の、つまりは日々食べて、働いて、寝て、出して、といった当たり前の日常の中にある“生きる”を考えたいという思いがずっとありました。その最たるものが「食」。しかも食そのものが目的なのではなく、食を通して生きることを考え直したいという思いを強く持っていました。

私の専門の足場はそもそも地理学です。地理学の研究者はどちらかというと、目に見える文化事象や経済事象に注目しがちなのですが、私は、たとえば産業を支える女性たちの生き様やライフヒストリーなど、よく目をこらさなければ見えないものに焦点を当ててきました。ただ私が研究をはじめた当時は、日常生活は研究の対象にはなり得なかったですし、「ライフ(生活、人生、生きること)」という言葉は研究者が使う言葉ではありませんでした。しかし最近ではライフを語ってもいい雰囲気が醸成されてきたこともあり、そのことも「食を通して生きることを考え直したい」というテーマの追い風となっています。

食を起点に生きることを考えるには先入観を取り払うことが大切です。たとえば「昔の人はひもじい思いをしていた」と一言で片づけてしまうのではなく、ではお茶碗何杯くらい食べていたのだろう、みそ汁にはどんな具材が入っていたのだろう、と踏み込んで考えることで見方や捉え方が変わります。食という自身の経験を土台にして、見えなかったところに踏み込める点がこの研究テーマの強みでしょう。

食べ物の向こう側にある世界観までたどり着くために

kenkyu_ichigaya_yuzawa02.jpg祖母や祖父など年輩の方から「ご飯食べた?」と聞かれた経験がある人が多いと思います。胃袋の状態を聞くということは、つまり「ちゃんと元気で生きているか?」と聞いていることと同じ意味です。この話をすると多くの学生がハッと気づいたような表情を見せるのですが、この他人の胃袋を気遣う発想に気が付くと、少しずつ社会が変わっていくのではないかと感じています。しかも食や胃ではなく、あくまで「胃袋」。この胃袋というのはとても不思議な言葉で、胃袋と言った途端に、においや音がするようなリアリティを持ち、自分事へと引き寄せられるのです。食は最近人気の研究テーマではありますが、食と考えるか、胃と考えるか、胃袋と考えるかで、社会の見え方は大きく変わってくると思います。

食の研究は学生も関心を高めていますが、一方でこれからの第一次産業をどう考えるかという話になると急激に関心が薄くなるような印象があります。私はこの状態を「個に閉じた胃袋」と呼んでいます。胃袋が個に閉じてしまうと、人間が何か特別な生き物で、すべては人間の胃袋のために存在するように勘違いしてしまい、世界を狭めてしまいます。大切なのは開いて見ること。私たちは森羅万象のものと命を交換しながら、バトンを渡しながら、生を繋いでいます。食について学ぶ中で、そういった食べ物の向こう側にある世界観までたどり着いて欲しいと思います。

胃袋を個に閉じてはいけないというと、一人で食事、いわゆる「孤食」がダメであるような印象を受けられるかもしれませんが、決してそうではありません。たとえ一人でおにぎりを食べていたとしても、握ってくれた人や梅干を漬けてくれた誰かがいて、そこには個々の「食物語(たべものがたり)」があるわけです。そういう物語を少し想像するだけでも胃袋は個に閉じない、つまり一人でいてもダイアローグ(対話)は可能ということになります。

学問と学問を組み合わせて21世紀型の知の在り方を実践

新型コロナウイルスの感染拡大により、研究で現場に行くことが困難になりましたが、100年前の世界にはいつでも行けます。歴史研究はタイムトラベルですから、たとえば現在の愛知県に調査に行けなくても、資料を手に入れて100年前を旅したり、国を超えてアメリカボストンに行くこともできます。現代はオンラインでハーバード大学の図書館にもアクセスできる時代。今は時空を超えた資料との対話をしながら、リアルの対話の機会を待っているところです。

ただオンライン講義がずっと続いていると、オンデマンドで音声を届けることには慣れてきたものの、ずっと何か物足りない気がしていたのですが、それが「余白」であることに気づきました。食べ物も、単に栄養補給のためとか目的ありきで必要最低限の食事をしていたらつまらないのと同様に、ちょっとした余白や遊びが生きるのには必要。ですから最近は学生たちとラジオ番組「Brico*Radio」を立ち上げました。手もとにあるものを組み合わせて新しい価値を作ることを意味するブリコラージュ(仏)という言葉にちなんでいます。学生が呼びたい先生をゲストに迎えて20分ほどフリートークをして、学部内で聞けるシステムにしているのですが、今はその活動から多くを学んでいます。

こども食堂の活動も続けていますが、コロナ禍の影響で人数が制限されるため、食材を配る活動に切り替えました。ただそれだけだとつまらないので、食材を持って帰った子どもたちが自分たちで料理をすることができる仕掛けを考えました。大根はおばさんにもらったなとか、サラダにしてみたら妹が喜んだとか、食材を通じて対話してもらえればと思っています。食べ物と対話する楽しさを知っている子どもたちが少しでも増えると、社会が変わっていくはず。先の長い話ではありますが、「一緒に食べられない」という困難をあえて活用し、研究や社会活動の次の手を試すことは非常に有意義ですし、何より私自身がワクワクしています。

最近はメディアでもSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)というワードを耳にするようになりました。17のゴールを見てみると食に繋がっているテーマが多いですし、これをきっかけに食について考える人が増えればいいなと思います。ただSDGsのDが「ディベロップメント」となっているのが私としては少し残念。開発するということになると産業や経済が中心になってしまいますから、Dの部分を「リビング」のLとし、SLGsになればいいのにと個人的に思っています。日常に多くの人が穏やかに向き合うにはどうすればいいのかを議論すれば、もっと考えやすく、かつ多くの人が自分事として捉えられるのではないでしょうか。

これまで食というと家政学や栄養学が専門領域としてあったのですが、SDGsを見れば分かるように、世界的に食の問題が広く議論されつつあるなかで、法律、環境、文学、経済とありとあらゆる分野の知識が求められるようになりました。こうした時代背景もあり、私は今後も何か専門に特化するのではなく、食というテーマに対して他の分野とどれだけコラボレーションできるか、というところを目指していきたいです。学生たちにも「〇〇学×〇〇学」と学問を掛け合わせる魅力を知って欲しいと伝えていますし、この学問の組み合わせこそが21世紀型の知の在り方だと思います。私自身も21世紀型の知の在り方を目指して、学問分野の足場は持ちつつも、異分野、他分野と組み合わせた講義を積極的に行っていく予定です。

学問の組み合わせには偶然の重なりがあり、瞬間的な出会いもあります。そういう意味では学問だけでなく、食べ物も、講義も、人も、研究テーマもすべて偶然の産物。学生には、即興的な出会いでしか生まれない面白味を、存分に味わって欲しいと思っています。

  • こども食堂でおにぎりを握る風景

  • こども食堂の看板

  • こども食堂のパントリー活動風景

  • こども食堂で提供される食材

人間環境学部人間環境学科 湯澤規子 教授

筑波大学大学院歴史・人類学研究科単位取得満期退学。博士(文学)。明治大学経営学部専任講師、筑波大学生命環境系准教授を経て、現職。主な著書に『在来産業と家族の地域史』(古今書院、経済地理学会著作賞、地理空間学会学術賞、日本農業史学会学会賞)、『胃袋の近代』(名古屋大学出版会、生協総研賞、人文地理学会学会賞)、『7袋のポテトチップス』(晶文社)、『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(ちくま新書)などがある。