2017年度

Vol.98 「大学令」以前の 法律学校時代を物語る諸資料

2017年08月08日

2017年度

2016年秋、本学前身の法律学校で学んだ2人の校友に関わる貴重な資料が、両者の親族・寺川騏一郎氏より本学に寄贈されました。

校友の一人である徳平英勝氏は、京都府出身で1886(明治19)年に「東京法学校」に入学し、1889(明治22)年に「和仏法律学校」を卒業しました。公証人や弁護士を経て、島根県の大森区裁判所の判事(裁判官)を務めています。

今回寄贈された徳平氏の「卒業証」は、現存する最も古いものの一つです。和仏法律学校には邦語と仏語の二つの法律科があったため、所属に「邦語法律科」とあります。学校名の前には、高等文官試験(司法試験、国家公務員総合職試験に相当)の受験が認められる「司法省指定学校」が付いています。当時の校長・箕作麟祥(みつくりりんしょう)やボアソナードの名前もあり、徳平氏は両者の授業を受けていたと考えられます。

寄贈品には、判事時代に受け取った叙任状も多数あります。「高等官七等」に昇進した際の叙任状には、内閣総理大臣・伊藤博文の名前が記されています。

徳平氏の卒業証。左上には卒業成績「第三号」が記されている

徳平氏の卒業証。左上には卒業成績「第三号」が記されている

もう一人の校友である森下重格氏は、徳平氏の娘婿にあたります。1917(大正6)年に法政大学専門部法律科を卒業後、高等文官試験に合格し、農商務省(農林水産
省と経済産業省に相当)に入省。大阪、山口、沖縄、広島などで行政官を歴任し、出世頭の校友として、学内でも知られていたようです。

寄贈された森下氏の卒業記念写真に写っているのは、1890(明治23)年に和仏法律学校新校舎として造られた、九段上校舎(富士見町6丁目)です。森下氏は後に『法政大学報』(1935年2・3月号)に「みすぼらしい校舎で受けた富井政章先生や牧野英一先生の授業」について記しています。

徳平氏の入学した年、東京法学校は、帝国大学監督下の「五大法律学校」の一つとなり、同氏の卒業年に合併と名称変更により和仏法律学校となりました。森下氏が学んだのは、1903(明治36)年の専門学校令によって正式な専門学校
となった「法政大学」です。その後、大学令によって1920(大正9)年に総合大学となり、法律学校時代は幕を閉じます。

両氏に関する資料からは、明治から大正期にかけて、大学、司法、行政の制度が確立に向けて目まぐるしく変化していたことがうかがえます。また名称や校舎は何度か変わりながらも、法律学校時代の本学に法曹や官吏(国家公務員)を目指して全国から集まった学生が、卒業後に各地で活躍していた様子もしのばれます。

  • 左:区裁判所の判事時代と思われる法服姿の徳平氏 右:1898年の徳平氏の高等官七等叙任状

  • 森下氏の卒業式写真。「最も楽しかったのは欠講時に弁論会を開くこと」だったという

取材協力:寺川騏一郎氏、法政大学史センター

(初出:広報誌『法政』2017年度5月号)

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