2013年度

Vol.69 野上弥生子関係資料

2014年03月27日

2013年度

2013年11月12日(火)から14年1月16日(木)まで、市ケ谷キャンパスで「野上豊一郎と弥生子展」が開催され、本学元総長・野上豊一郎博士と、夫人で法政大学女子高等学校名誉校長を務めた小説家・野上弥生子の遺品や関係資料が展示されました。このコーナーのvol.66で『野上豊一郎の遺品』としてその一部を紹介しましたが、今回は野上弥生子関係の貴重資料を紹介します。

野上弥生子(1885~1985)は豊一郎と同じ大分県臼杵の出身で、明治女学校在学中から豊一郎と交際し、卒業後の1906(明治39)年8月に結婚しました。同年10月には豊一郎ら夏目漱石の教え子たちが集い文学批評・談義を行う「木曜会」が始まるなど、その文学的環境が弥生子の文学の素地となりました。弥生子の作品「明暗」「縁」は、豊一郎が漱石のもとに持参して指導を仰いだといわれ、漱石は野上夫妻にとって共通の師でした。1920(大正9)年に豊一郎が本学の予科長となり、漱石門下の森田草平、安倍能成、内田百閒、青木健作らを教員に推薦しました。当時の様子を弥生子は、座談会「野上弥生子さんを囲んで」(1978年・上写真)で、「教授室や何かのムードが、(中略)本当の一種の自由人といったような、それで勝手なことを言い勝手なことをし、そしてお互いにそれに対して許し合っているというような、そういう雰囲気。だから教授室の空気というものをみんなとても楽しんでいたんじゃないでしょうか」と語っています。

1978(昭和53)年5月20日、当時の法政大学百年史編纂委員らが野上邸に弥生子を訪ね、座談を行った際の写真。座談内容は「野上弥生子さんを囲んで」と題して法政大学校友会報復刊第254~ 257、261号に収載。弥生子は平塚雷鳥らの『青鞜』創刊にも参加、「海神丸」で注目され、「真知子」「迷路」「秀吉と利休」など多くの作品を執筆しました

1978(昭和53)年5月20日、当時の法政大学百年史編纂委員らが野上邸に弥生子を訪ね、座談を行った際の写真。座談内容は「野上弥生子さんを囲んで」と題して法政大学校友会報復刊第254~ 257、261号に収載。弥生子は平塚雷鳥らの『青鞜』創刊にも参加、「海神丸」で注目され、「真知子」「迷路」「秀吉と利休」など多くの作品を執筆しました

豊一郎が急逝した1950(昭和25)年、弥生子は法政大学女子高校の前身、法政大学潤光女子中・高等学校の名誉校長に迎えられました。翌年初夏、生徒に述べた「女性である前にまず人間であれ」という意味の言葉は、現在も同校のモットーとなっています。また、52年に野上記念法政大学能楽研究所が創設された際には顧問として加わっていました。

1971(昭和46)年に文化勲章を受章したあとも創作意欲が衰えることはなく、百歳を目前にして85年に逝去するまで、80年近い作家人生を送ったのです。

1947(昭和22)年、北軽井沢「法政大学村」の別荘でくつろぐ野上豊一郎(右端)・弥生子(左端)夫妻。間に立つのは谷川徹三夫人多喜子と長男の俊太郎。本学の同僚でともに総長を務めた野上豊一郎と谷川徹三は家族ぐるみの親交があった

1947(昭和22)年、北軽井沢「法政大学村」の別荘でくつろぐ野上豊一郎(右端)・弥生子(左端)夫妻。間に立つのは谷川徹三夫人多喜子と長男の俊太郎。本学の同僚でともに総長を務めた野上豊一郎と谷川徹三は家族ぐるみの親交があった

1979(昭和54)年、法政大学女子高校創立30周年に際し、学内広報誌『むぎのほ』第81号「創立記念特集号」に寄稿した「縁の不思議」の原稿。法政大学女子高校での日々を回顧し、高校とその生徒たちに対する弥生子の感懐は仏教が説く「縁」の一語に尽きると述べた文章(法政大学女子高等学校所蔵)

1979(昭和54)年、法政大学女子高校創立30周年に際し、学内広報誌『むぎのほ』第81号「創立記念特集号」に寄稿した「縁の不思議」の原稿。法政大学女子高校での日々を回顧し、高校とその生徒たちに対する弥生子の感懐は仏教が説く「縁」の一語に尽きると述べた文章(法政大学女子高等学校所蔵)

取材協力:法政大学史センター 古俣達郎、資格課程実習準備室 小町大和

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