2012年度

Vol.56 桝田啓三郎筆「三木清日記・書簡」

2012年10月25日

2012年度

『人生論ノート』の著者として知られる三木清が、法政大学法文学部(当時)の哲学科主任教授として着任したのは1927(昭和2)年4月のこと。その前年に『パスカルに於ける人間の研究』で論壇デビューを果たした三木は、着任直後から唯物史観に関する研究論文を発表し、新進気鋭の哲学者として名を馳せていきます。

後に本学教授を務めることになるキルケゴールの研究者・桝田啓三郎は三木の着任と同時期に法文学部哲学科に入学し、当時の三木の講義を聴いて、いたく感銘を受けました。桝田の回想によると、「三木先生の講義が行われる時間には東京にあるほとんどすべての大学の学生が教室に詰めかけて、聴講者はいつも教室にあふれるほどであつた」(『回想の三木清』)そうです。このときから桝田は三木を生涯の師として仰ぐことになります。

1932(昭和7)年撮影。前列右から2人目が三木清、後列右から2人目が桝田啓三郎。三木の右隣には後の法政大学総長・谷川徹三の姿も

1932(昭和7)年撮影。前列右から2人目が三木清、後列右から2人目が桝田啓三郎。三木の右隣には後の法政大学総長・谷川徹三の姿も

三木は1930(昭和5)年に治安維持法違反により教授職を解任されますが、桝田をはじめとする法政の愛弟子との関係はその後も密接でした。彼らが頻繁に三木邸を訪ねていたことは当時の日記にも記されており、1945(昭和20)年に三木が亡くなったときに彼の遺体を引き取りに行ったのも愛弟子たちでした。

戦後間もなく桝田は『三木清著作集』を編集するために三木の日記や婚約者への手紙を遺族から借り受けて筆写しました。その後、原本が失われてしまったため、桝田筆による三木の日記や手紙は非常に貴重なものとなっています。これらの資料は『三木清全集』が編纂される際も底本として使用され、現在は法政大学大学史編纂室に保管されています。

1934(昭和9)年油壺に赴いた際の三木(左)と桝田

1934(昭和9)年油壺に赴いた際の三木(左)と桝田

(左)三木は日記をつける習慣がなかったようだが、1935(昭和10)年以降の3年間分のみ桝田筆の日記が残されている(右)三木が婚約者の東畑喜美子氏に送った手紙。パスカルとマルクスに言及した手紙は後世の貴重な研究資料に

(左)三木は日記をつける習慣がなかったようだが、1935(昭和10)年以降の3年間分のみ桝田筆の日記が残されている(右)三木が婚約者の東畑喜美子氏に送った手紙。パスカルとマルクスに言及した手紙は後世の貴重な研究資料に

桝田は法政予科教授、法政大学教授を経て千葉大学、東京都立大学(現・首都大学東京)、東洋大学などに転任しましたが、兼任教授や非常勤講師として長きにわたり本学の教壇に立ち続けました。三木の功績を伝える仕事にも力を注ぎ、1970(昭和45)年には本学敷地内に三木の文章を刻んだ哲学碑を設置。桝田は死後、学恩に報いるために蔵書のすべてを本学図書館に寄贈しました。現在、図書館の「三木清文庫」の隣には「桝田啓三郎文庫」が並んでいます。

(上)旧69年館(現・法科大学院棟)の中庭に設置された哲学碑。現在は市ケ谷キャンパスの図書館のロビーに移されている(下)哲学碑設置の際、桝田が寄せた言葉。三木の功績に対する賛辞と感謝の念が綴られている

(上)旧69年館(現・法科大学院棟)の中庭に設置された哲学碑。現在は市ケ谷キャンパスの図書館のロビーに移されている(下)哲学碑設置の際、桝田が寄せた言葉。三木の功績に対する賛辞と感謝の念が綴られている

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