2011年度

Vol.33 法政大学図書館 所蔵資料 『滑稽短冊集』

2012年01月19日

2011年度

上田秋成、式亭三馬、十返舎一九、曲亭馬琴といった、江戸時代の著名な作者らの直筆を含む『滑稽(こっけい)短冊集』が、本学図書館に所蔵されています。
この短冊集は、和歌・俳諧・狂歌など幅広い短冊の収集家として知られる京都の商人・浦井有国(1780─1858)が集めたもので、帖仕立(じょうじた)ての台紙の両面に52人の狂歌師たちが自作の歌を揮毫(きごう)した52枚の短冊が収められています。
『滑稽短冊集』の内容は幅広く、近世初期の公家の歌人で狂歌もたしなんだ烏丸光広(からすまるみつひろ)、近世前期では、風水軒白玉の名で狂歌集を出版した正親町公道(おおぎまちきんみち)、上方狂歌の芥川貞佐、栗柯亭木端(りっかていぼくたん)、九如館鈍永(きゅうじょかんどんえい)、一本亭芙蓉花(いっぽんていふようか)らのものから、有国とほぼ同時代のものまでを含みます。
中でも注目すべきは、狂歌が大流行し社会現象化した「天明狂歌の時代」の中心人物で、四方赤良(よもあから)を名乗った大田南畝(おおたなんぽ)(蜀山人<しょくさんじん>)と、南畝とともに狂歌三大家といわれた唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)(「あっけらかん」とした性格から)をはじめとする江戸狂歌師たちです。多くの門人を育てた元木網(もとのもくあみ)、初めて江戸狂歌の出版事業を手がけた浜辺黒人(はまべのくろひと)(芝の浜辺に住んでいたことと色黒のうえにお歯黒までした「歯まで黒人」の地口<じぐち>から)、南畝の門人で後に江戸狂歌壇の大御所となった宿屋飯盛(やどやのめしもり)(宿屋の主人だったことから)、その姿を戯画化した 頭 光(つむりのひかる)、文化文政期江戸狂歌壇の盟主となった鹿都部真顔(しかつべのまがお)といった江戸狂歌界の主要歌人をほぼ網羅しています。
変わったところでは、江戸歌舞伎界のスター・五代目市川団十郎(俳名白猿)、秋田藩留守居役の武士でありながら奔放な作風で黄表紙の黄金期を築いた朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)(狂名は手柄岡持<てがらのおかもち>)、浮世絵師としても活躍した窪俊満(くぼしゅんまん)、江戸落語の中興の祖・烏亭焉馬(うていえんば)(大工の棟梁だったことから狂名は鑿釿言墨金<のみちょうなごんすみかね>)、さらには江戸唯一の官許の遊里新吉原の妓楼「大文字屋」の主人・加保茶元成(かぼちゃのもとなり)(父親が頭の形からカボチャとあだ名されたことから)などがみられ、狂歌が身分や職業を越えて人々の間に浸透していたことがわかります。

写真向かって右から、曲亭馬琴、式亭三馬、上田秋成、十返舎一九の短冊。読みと内容は次の通り。
(1)曲亭馬琴「松魚 庖丁の手もふる舞の袖なればひとさし見せんいざえぼし魚 馬琴」
「えぼし(烏帽子)魚」は鰹(松魚)の別名。包丁も軽やかに鰹をさばくその手際を舞になぞらえている。初鰹は江戸っ子たちに珍重された。「ふる」は、手を「振る」と「ふるまい」の掛詞。舞、袖、烏帽子は縁語。
(2)式亭三馬「吉原花 わけ登る花のよし野もよしはらも山口よりぞさきはじめける 三馬」
 華やかに装った遊女らが行き交う江戸の新吉原遊郭の様子を、同じ「吉」の字で始まる桜の名所・吉野山(現在の奈良県)にかけて詠んでいる。「山口」は吉野山の登山口であるとともに、新吉原の正門を入って最も手前の右側にあった引手茶屋巴屋(遊客を案内する茶屋で、略して山口屋)のことを指す。
(3)上田秋成「池氷牢堅 ふしづけのしたにを見ゆる鯉ふなの鰭うごかして何あさるらん よさい」
 秋成75、76歳の最晩年の真筆。「ふしづけ(柴漬)」は、冬に柴を束ねて川に漬け、寒さを避けてその中に集まる魚を捕らえる仕掛け。池に堅く張った氷の下、「ふしづけ」に集まった鯉や鮒を詠んでいる。
(4)十返舎一九「吉原の草市 傾城がほつたて尻も格子からすかしてみる居る草市の人 一九」
 傾城とは、古代中国で国を傾けるほどの美女を「傾城」と呼んだことに由来する、遊女の別名。草市は灯籠や草花などお盆に用いる諸道具が商われた市で、吉原でも7月12日に開かれた。その草市にかこつけて訪れた見物の人々が遊女をひやかし見るさまを詠んでいる。

取材協力:文学部
     小林ふみ子准教授

これまでの「HOSEI MUSEUM」の記事は下記のリンク先に掲載しています。