法政大学エピソード

梅謙次郎博士

法政大学エピソード

1880(明治13)年4月、東京法学社として開講された本学は、その後いくつかの変遷を経て、1903(明治36)年、専門学校令の公布にともない、財団法人和仏法律学校法政大学と校名を改めます。この時、大学部、専門部、高等研究科および大学予科が設置され、総理(現在の総長)に就任したのが、わが国「民法の父」といわれる梅謙次郎博士です。

「空前絶後の立法家」「先天的な法律家」と称された梅 謙次郎博士は万延元(1860)年、出雲松平侯の侍医の次男として生まれました。
幼少より俊秀の誉れ高かった梅博士ですが、明治維新後、士族の廃止により一家は零落。上京後は大道の夜店で足袋手拭などを売りながらカンテラの灯りで書見に励むなどの刻苦精勤し、東京外国語学校仏語科を最優等で卒業。その後司法省法学校も首席で卒業しました。

卒業後は、司法省御用掛・文部省御用掛を経て東京法学校(官立)教員に就任。フランス留学では、リヨン大学から「和解論」(De la Transaction)によってドクトゥール・アン・ドロワ(法学博士)の学位を授与され、さらにこれによってリヨン市からヴェルメイユ賞碑が贈られ、同論文の市費出版という名誉も受けました。
この後、梅博士はドイツのベルリン大学で一年研鑽を積み、帝国大学法科大学教授に専念するつもりで、1890(明治23)年、5年ぶりに帰国したところ、横浜港の船内まで出向いての富井政章氏(のちに本学校長〈現在の総長〉・法学博士)や本野一郎氏(本学講師、のちに外務大臣・法学博士)から本学へ来てほしいとの懇請があり、これに応えた梅博士は和仏法律学校(本学の前身)の学監兼務を承諾されました。
以来、51歳で急逝するまでの20年余、多忙の中を割いて本学のために働き続け、その間給与等は一切受け取らなかったといいます。特に校長、総理時代、同校の諸事業には必ず梅博士の姿が見られました。
(『法政大学1880-2000 そのあゆみと展望』より要約)

梅 謙次郎博士 1909(明治42)年5月撮影

梅博士の横顔

「梅先生は法典調査委員として日本民法編纂の大業をなしとげられたほか、帝国大学教授、内閣恩給局長、法制局長官、文部省総務長官などの要職を次々と歴任される多忙な体なのに、法政大学の運営には身を挺した。一方では学生の試験答案にいちいち目を通したばかりでなく、学生の就職まで奔走され正に超人的ともいうべき努力をされた」(富井政章談)
「先生が文部省総務長官の時、一般の面会日は火曜日と決め、役所のドアーには『面会日火曜日』と書いて貼ってあったが、そのわきに『但し法政大学並びに校友会員はこの限りに非ず』と書いてあった」(1901(明治34)年卒、佐竹巳之松談)
(『法政大学の100年 1880-1980』より抜粋)

梅総理の急逝

1910(明治43)年8月25日、韓国政府の法律顧問として渡韓していた梅総理は、腸チフスのため急逝しました。(享年51歳)
同年7月10日の和仏法律学校第26回卒業式に出席してからの渡韓であっただけに、その死は大きな衝撃をあたえました。9月3日には音羽の護国寺で大学葬が盛大に挙行され、学内外の多くの人々がその死を惜しみました。
現在、護国寺の一隅にある梅の墓石には、一切の肩書きなしに、ただ「梅謙次郎墓」と刻まれています。
(『法政大学1880-2000 そのあゆみと展望』より要約)

梅 謙次郎博士顕彰碑 (松江総合文化センター市民の杜)