■外濠公園と法政大学
2005/2/23 掲載
撮影場所/市ケ谷キャンパス・外濠公園
 桜の名所としても知られる外濠公園は、法大生の通学路として長く親しまれています。法政大学の校歌にも「蛍集めむ門の外濠」という歌詞の一節があります。

 この外濠の“土手”が公園となるきっかけとなる話が『法政大学の100年<1880−1980>』に掲載されていますので、ご紹介します(写真下の記事を参照ください)
現在の外濠公園 開放後の“土手公園”(昭和初年)
法政大学の100年<1880-1980>〜「土手公園物語」より転載〜
 大学前の外濠が掘られたのは、今から約340年前の寛永年間であった。お濠を掘った土で現在の土手を盛り上げた。この時以来、お濠も土手も幕府要害の地として立入りが厳重に禁止された。明治7年、時の東京府知事大久保一翁は、「伺書」を提出し、有名な「この土手に登るべからず 警視庁」の高札が、建つことになった。以来、この高札は、昭和初年まで生き続けた。

 震災後、学生が急増すると、彼らは憩いの場を土手の芝生に求めた。しかし、相変わらず高札が建っていて、道路と土手の境には、鉄柵がいかめしく張り巡らされていた。

 法政ボーイはその鉄柵を越えて土手に上がる。すると三輪田高女(※1)の前にあった交番から巡査が駆けつけてこれを制止する。巡査が引き上げるとまた登る。登るとまた巡査が来る。一日に何回となく、しかも連日これが繰り返されると、業をにやした警官は学生の何人かを捕えて麹町署に引到する。これを奪還するために大勢の法政ボーイが押しかける。2階3階の窓から轟々たる声援がわく。こうして乱闘になることがしばしばだった。大学も捨てておけなくなった。そこで校友(※2)の東京市会議員の応援を得て、東京市に対し土手開放の猛運動を起こした。

 その結果、牛込駅から新見附まで(※3)を第1期工事として公園化し、取り敢えず「土手公園」として一般に開放することになった。昭和2年8月31日であった。この時大学では土手公園にいくつかのベンチを贈った。

(※1)現在の三輪田学園
(※2)卒業生のこと
(※3)現在のJR飯田橋駅から新見附橋までの間
報知新聞に載った漫画記事(昭和4年6月18日)
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法政大学広報・広聴課