梅謙次郎文庫
1. 梅謙次郎について

 梅謙次郎博士は1860(万延元)年、松江市灘町に生まれた。 少年時代から学才に恵まれ神童の誉れ高かった博士は、東京外国語学校、司法省法学校を首席で卒業後、文部省の国費留学生としてフランスのリヨン大学に学んだ。 そして、リヨン大学での博士論文『和解論』は最優秀の評価を得、今もフランスでは法律百科事典に引用されている。
 その後ベルリン大学を経て1890(明治23)年に帰国。その年から東京帝国大学と和仏法律学校(法政大学)で教鞭を執り、1899(明治32)年には和仏法律学校の校長職に就いた。
 途中、文部省総務長官に就任した一時期を除いて校長職を務め、1903(明治36)年には専門学校令によって「和仏」から法政大学に改称したときの初代総理になり、1910(明治43)年韓国ソウルの地で没するまで終生その地位にあった。
 その間、民法起草委員として明治の新法典整備に中心的役割を果たし、政府関係の要職を次々と歴任する多忙の日々だったが、法政大学の運営では目を見張るような諸改革を精力的に断行した。 一方教育者としての博士は、担当する課目については自ら講義し、学生の試験答案には一人一人簡潔明瞭なコメントを添えて返したばかりでなく、教え子の就職にまで奔走したといわれている。
                                  【雑誌「法政」臨時増刊8号より】
<司法省法学校時代>
 士族の禄を失って、1874(明治7)年上京した一家は零落。 謙次郎は大道の夜店で足袋手拭などを売りながら、カンテラの灯で書見に励むなどの刻苦精励で東京外国語学校仏語科に学び、1880(明治13)年2月、最優等の成績で卒業。 おりから司法省法学校第2期生の補欠募集があり、応じて入学。 1884(明治17)年2月同校も首席で卒業した。この第2期生の法律学士33名の中には、飯田宏作、古賀廉造、松室致、寺尾亨、田部芳、富谷太郎、小野衛門太、春日粛など、その後の和仏法律学校にゆかりの深い人名が並んでいる。
              【法政大学大学史資料委員会他編「法政大学1880-2000」より】
<リヨン留学時代>
 司法省法学校卒業後、司法省御用掛となり、法学校廃止に伴って文部省御用掛に転じ、1884(明治17)年12月、東京法学校(官立)勤務。1885(明治18)年10月からは東京大学法学部教員となったが、12月フランス留学を命じられ渡欧。 1886(明治19)年2月リヨン大学に入った梅は1889(明治22)年7月「和解論」(De la Transaction)によってドクトゥール・アン・ドロワ(法学博士)の学位を授与され、さらにこれによってリヨン市よりヴェルメイユ賞牌が贈られ、同論文の市費出版という栄誉も受けた。 さらにドイツのベルリン大学で一年間研鑽を積んで1890(明治23)年8月帰朝。
                                  【同「法政大学1880-2000」より】
<和仏法律学校時代>
 梅は帝国大学法科大学教授の職務に専念するつもりで帰国したのであったが、横浜港の船内までの出向いての富井政章や本野一郎(ともにリヨン大学法学博士、本野はリヨンで梅と親交を結び一足先に帰朝)の懇請に応えて、和仏法律学校の学監兼務を承諾した。 以来、51歳で急逝するまでの20余年、多忙の中を割いて和仏法律学校のために働き続け、その間給与等は一切受け取らなかったと言う。 とくに校長、総理時代同校の諸事業には必ず彼の姿が見られた。
 様々な仕事もあったが、それら八面六臂の活動を、睡眠時間を4時間にし、人力車の中でも、寸暇を惜しんで書類に目を通すという猛烈さと、流れるごとくに難問を捌き明快に処決する神速ぶりでこなしていった。 民法全体についての注釈書『民法要義』を刊行したほか、『法学志林』に連載した「最近判例批評」は不適切な裁判例に対して容赦なく批判し、「梅の第4審」と言われた。
                                  【同「法政大学1880-2000」より】
<民法典論争>
 ボアソナードが1879(明治12)年以来起草を続けてきた民法典は、1888(明治21)年2月までには全条文の起草を終わり、1887(目路20)年11月以来、日本人10名よりなる司法省内の法律取調委員会での修正・削除を受けた上、1889(明治22)年1月、元老院に提出、枢密院の諮詢に付された後、1890(明治23)年4月21日付『官報』において公布された。 これに対し1889(明治22)年4月、英法派の法学士会が「法典編纂ニ関スル法学士会ノ意見」を公表し反対運動が激化した。そして穂積八束の「民法出デテ忠孝亡ブ」(『法学新報』1891(明治24)年8月)が出る頃には、いわゆる「家族国家」的な「国体」観念、天皇制イデオロギーの確立に伴って、「個人主義」と「契約自由の原則」にのっとった近代法原理によると見做されたボアソナード民法典への、排撃の風潮が煽られた。 ボアソナードは「日本人民ハ余ヲ見捨テタルモノナリ、余亦日本ニ用ナシ」と嘆いたという。                        【同「法政大学1880-2000」より】
 即時断行を主張したのは、フランス法を学ぶ、和仏法律学校、明治法律学校など仏法関係者、延期派は帝大英法派と東京法学院(中央大学の前身)などの英法関係者であった。 日本の法学界を二分して激しい論争が続き、1892(明治25)年の第3回帝国議会に「民法商法施行延期法案」が上提されたが、5月28日貴族院、6月10日衆議院で議決され、断行論は葬られた。               【『法政大学八十年史』より】

<法典調査会>
 法典論争時に、梅は和仏法律学校(現法政大学)を中心とした断行派の旗手として活躍した。 政府の知恵袋として大いに援助を与えたと評された背景には、ボアソナード民法の周到な検討があった。 延期派であり梅のライバルであった富井政章ですら脱帽するほど、梅は超多忙でありながら、寸暇を惜しんで条文の検討を行っていた。法典論争で敗れたとはいえ、梅はその才能を買われて民法(1898年施行)の起草にかかわっていく。そして、不平等条約の改正という法典編纂の目標のためには、妥協できるところは妥協して民法を早く制定しようと努力したのである。
 「法典調査会民法議事速記禄」では、梅のそのような姿勢をはっきり読み取ることができる。 また、梅は民法起草に際して一方でドイツ法と同じくらいフランス法をも参照したと述べてはいるが、他方で、スイスやモンテネグロ(現在はユーゴスラヴィアの一部)などできるだけ広く諸外国の法律を参照したとも指摘している点に注意すべきであろう。 なお、起草者・梅について忘れてならないことは、民法制定後短時間のうちに参考書「民法要義」(全5巻)を完成したこと(これをなしえたのは梅のみ)、さらには「法典質疑会」を起こして若い研究者を動員し、自らはその会長として、読者の疑問に答えるという形で、民法・商法等の普及・啓蒙をはかったことである。                              【岡孝「韓国の立法作業と梅謙次郎」(『わが民法の父 梅謙次郎博士 顕彰碑建立の記録』所収)より】

<韓国立法調査>
 梅は、民法・商法の起草でその手腕を高く評価した伊藤博文から懇請されて、1906(明治39)年夏から韓国で「土地建物証明規則」を始めとする立法作業にたずさわる。 そして韓国各地の慣習を調査し、それに基づいて韓国のための民商統一法を起草しようとしていくのである。 民商統一法は、留学時代からの梅の持論であった。 (遺族によると)日韓の合邦には反対であったという基本的立場から、梅は韓国独自の法律が制定されるべきだという意見を持っており、伊藤の庇護のもとに立法作業を進めていった。 今日からみれば調査方法に批判の余地はあるにしても、206の調査項目を立ててそれぞれに留意すべき点を指摘した「慣習調査問題」を見ると、梅の韓国にかける情熱のほどが感じられる。
 最近の韓国の研究によれば、伊藤の死後は日本政府(統監府)内の「法典制定派」は急激に衰え、代わって「日本法強制派」の立場が次第に強くなり、そのために梅の起草にかかる「民事訴訟法案」が葬り去られていった、というのである。 梅がなぜ、いかなる動機から韓国の立法作業に従事していったかの動機は、今後に残された課題ではあるが、上述の「証明規則」などが結局は韓国における日本人の土地取得を容易にしていったとの批判がある点を見逃してはならないだろう。
【岡孝「韓国の立法作業と梅謙次郎」(『わが民法の父 梅謙次郎博士 顕彰碑建立の記録』所収)より】

2. 梅謙次郎文書について
 没時に梅の手元にあった文書をまとめた70冊からなる梅文書の大半は、和綴じの冊子であるが、堅牢な化粧ボール紙を表紙として製本され、背文字が金文字で刻字されているものもある。
 さらに、その製本されたものの数冊は1989年のマイクロ撮影時に解体され、その後和綴じに改装された。そして、撮影時に梅文書の全体が、65帙に入れられて(それ以前はむき出しのままの状態であった)、現在貴重書庫内に保管されている。通常の閲覧は副本(マイクロフィッシュ)で行う措置がとられている。
 各冊子には題簽に(それがない場合には表紙に)標題が書かれているが、中に綴じられている文書がすべてその標題に関するものといえないばかりか、同一テーマに関する文書が複数の冊子に分散して収録されているケースもある。したがって、この文書を利用するためには詳細な目録が必要になってくる。法政大学にこの文書が受け入れられた時に目録が添付されていたか、あるいは学内で目録が作成されていたかについては、戦災により図書館の書類が消失してしまった現在では、確かめようがない。
      【梅文書研究会編 『法政大学図書館所蔵梅謙次郎文書目録』「解題」より】

※ 『法政大学図書館所蔵梅謙次郎文書目録』は、現在配布用の残部はございません。 法政大学各キャンパス図書館に所蔵のものをご利用ください。
 また、梅文書の検索は、法政大学図書館 OPAC で行うことが可能となっています。
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