池田美恵文庫

図書館事務部長
河原 由治

「池田美恵文庫」は、1997年12月4日に名誉教授加来彰俊氏を介して法政大学図書館に寄贈された。
池田美恵氏は、本学の文学部(1983-86年度)と大学院(1989-91年度)で、それぞれ非常勤講師として教鞭をとられた古代ギリシャ哲学の研究者である。名誉教授加来彰俊氏とは田中美知太郎を共通の師とする関係にある。つまり、田中美知太郎は、昭和3年(1928)から終戦近くまで本学の講師だったが、その間に東京文理科大学の講師を兼任していた時期がある。当時、東京文理科大学の学生であった池田美恵氏は、その門下生である。戦後、田中美知太郎は京都大学に移るが、そこでの門下生の一人が加来彰俊氏ということになる。
「池田美恵文庫」は、洋書3014冊、和書70冊からなっている。和書の冊数が極めて少ないのは、他機関に寄贈されたからだが、洋書の大部分は西洋古典関係の書物で占められている。このことがこの「池田美恵文庫」の最大の特色と言える。そこで、この「文庫」の内容を概括的に紹介しておく。
まず、専門書だが、池田氏の専門が古代ギリシャ哲学であった関係から、この分野における学術書で戦後欧米諸国で出版されたものの中で、めぼしいものは大体揃っているように思われる。ソクラテス以前の哲学者から、ソフィスト、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等のもの、その他、ホメロス、アイスキュロス、ソポクロス、アリストパネス等の原典や注釈書、研究書が揃っている。
叢書類では、「ロウプ古典叢書」(ギリシャ語・ラテン語原文と英訳)は既刊分全て揃っている。また古典のテキストとして定評のあるトイプナー版も大体揃っており、さらに、原文と仏訳によるヒュデ版の叢書も重要と思われるものは全て揃っているようである。その他に、マクミラン社やオックスフォード大学、ケンブリッジ大学出版の古典叢書など西洋古典関係の叢書類がかなりの量を占めている。
辞書・辞典類では、各種のものがあるが、パウリーの「古典古代学百科辞典」(全90巻近い)が目を引く。

「HUL通信」(第34号、2001.7.15、法政大学図書館)より

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「江戸文庫」について

社会学部教授
田中 優子

法政大学の「江戸文庫」は、幕末から明治にかけての江戸東京の都市記録、という明確なテーマに沿って集められた文庫である。私はこの狭い範囲に集中したコレクションを、見識あるコレクションだと思っている。
江戸時代は270年の長きにわたり、しかも文学、浮世絵、芝居、本草学、経済、政策、法律、各種記録類など、膨大なジャンルの資料が存在する。「江戸」を網羅的に集めようと考えたら、中途半端になるだけだ。文学だけ考えたとしても、浮世絵と合体した狂歌絵本や黄表紙から、文字だけで書かれた読本、そして俳諧集まで、その多様さは限りがない。その結果、江戸時代に関する収集は必ずといっていいほど、時期とテーマを限った狭い範囲のものの方が充実するのである。とくに江戸の都市記録は幕末に大量に出現しており、その後の東京の変化を考える上で、重要な情報を提供してくれる。
江戸の町は歩いてみないとわからない。そう思って、私はたびたび歩くのだが、どんなに歩いても江戸人には追いつかない。なにしろ都心から日帰りで、西は高幡不動、東は船橋や柏、北は桶川、南は川崎の大師河原あたりまで散歩してしまう人たちだ。とにかく何でも、足で確かめるのである。「江戸文庫」に収められているのは、そのような歩く江戸人たちの記録および、歩いて物事を確かめる人たちのために作られた本や地図ばかりである。
たとえば『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』が全巻そろっている。これは江戸を中心に、南は六浦、西は町田や八王子などの郊外を含む、膨大な絵図と文章の記録である。「名所図会」というジャンルは、京都を描いた1780年の『都名所図会』で成立し、主なものだけでも『都林泉名勝図会』『大和名所図会』『摂津名所図会』『岐曽路名所図会』『紀伊国名所図会』と続々と出された。意外なことに『江戸名所図会』はそれらが出た後、1834~36年になってようやく刊行されている。作者は斎藤幸雄(長秋)から幸成(月岑)の三代にわたる神田の町名主である。斎藤家の父子は絵師をともなってたびたび江戸と郊外を自ら歩いた。町名主という当時の行政官(町人)が私費と自らの足を使って都市の記録を作ったところに、私は当時の江戸っ子の江戸への愛着を感じる。そしてまた、江戸の風景が失われてゆくことへの予見と危機感をも感じるのである。やはり江戸文庫に所蔵されている『武江年表』は、その三代目の斎藤月岑が作った「江戸史」である。
江戸の記録はこのように、江戸に抑えがたい愛着をもって実際に歩き記録する人々によって作られ、また人々が歩くために使われたが、同時にそこには北斎、広重による風景画の完成、という事情も重なっていた。江戸文庫には広重の『絵本江戸土産』と、北斎が挿絵をした馬琴の『墨田川梅柳新書』が含まれている。江戸図の普及には、浮世絵師の実力がかかわっていたのである。これらの江戸ルポルタージュの中でも注目したいのが、国芳その他が参加して作った『安政見聞誌』である。これは戯作者の仮名垣魯文が執筆編集した安政大地震の映像つきルポルタージュだ。仮名垣魯文はこれをきっかけにして新聞界に進出し、明治以降の近代新聞創造期に活躍した。魯文の創刊した仮名文字とイラストによる新聞は、新聞をエリートだけのものではなく、一般の人々の読むものとして浸透させ、今日の新聞の基礎を作ったのである。
江戸文庫には他に『江戸切絵図』『江戸名所独案内』も収められている。実際に江戸時代の人々が使った地図とガイドブックだ。困ったことに、これらを見ると「本を捨てて町に出よう」という気分になってしまう

編集者注 本文庫の配置場所は市ヶ谷図書館準貴重書庫。事前申請により利用可能ですが、詳細はカウンターでお尋ねください。

「HUL通信」(第42号、2003.7.10、法政大学図書館)より

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グラス文庫

成蹊大学経済学部助教授
法政大学兼任講師
挾本 佳代

「ええっ! デイヴィッド・グラスの個人文庫が法政大学にあるの?」
この5月中旬に報告を行った学会でのこと、ひょんなことからグラス文庫の話になった時に、他大学の先生が非常に驚かれていた。しかし、ちょっと考えてみれば、それは無理もなかったことなのかもしれない。その学会が、18世紀末に「人口の原理」を著し、人口問題の重要性を近代社会に提唱したT.R.マルサスを研究するマルサス学会で、驚いていたその先生は、C.R.ドライスデールの新マルサス主義を研究している方だったのだから。
イギリスのLSE(London School of Economics)で,1948年以来、人口学を担当してきたデイヴィッド・ヴィクター・グラス(David Victor Glass、1911-1978)教授が所蔵していた図書を収蔵したものが「グラス文庫」である。多摩図書館の地下2Fにある。グラス教授は、雑誌「ポピュレーション・アンド・スタディーズ」「ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・ソシオロジー」の編集にも携わり、人口研究を行う社会学者や経済学者には広くその名を知られている研究者である。
この「グラス文庫」には、19世紀から20世紀前半にかけての人口問題を中心に、社会経済史、社会移動、家族問題、都市問題、教育問題、医療問題などに関する、実に幅広い研究資料が収められている。現在データ入力が完了し、利用することができる資料だけでも6000冊ある。妻のルーズ・グラスさんも都市社会学の研究者であり、夫妻はお互いに刺激し合って、異なる地域の研究をしてきたという。だから、都市問題に関する資料が多いのもうなずける。
また、インド史に関する研究資料が約1000冊あることも忘れてはならない。イギリスで人口研究を展開したグラス教授が、かつてイギリスが植民地としていたインドの歴史にも目を配っていたのは、かなり興味深いことである。
しかし、「グラス文庫」の特筆すべき最大の点は、いわゆる「人間の数」を問題とする「人口問題」にとどまらず、幅広い観点から「人口」を研究するための資料が揃っているということにある。

「地球白書」でおなじみの、ワールド・ウオッチ研究所のレスター・ブラウンもすでに指摘しているように、いまや、人口問題とは、単に「人間の数」が増えつづけていることだけに注目する問題ではなくなってきている。人口問題は、さまざまな社会問題を誘発する、非常にやっかいな問題だからである。現代のアポリアと化した食料資源問題や環境問題もそうだ。途上国を襲う貧困問題や、都市化や工業化の問題もそうだ。エイズをはじめとする感染症の患者数増加も、途上国の教育問題も女性問題もみな、根本的な原因は人口問題にあるといっても過言ではない。
つまり、人口問題は、18世紀末にマルサスが「人口の原理」ですでに示唆している通り、人間の生存を脅かしかねない大問題なのである。だから、私たちは人間に関わる、ありとあらゆる観点から人口問題を研究しなければならない。その観点の中には、「人間がまぎれもなく生物である」というものも含まれる。人口問題を、食料資源問題や環境問題と関連をもちつつ考察しなければならないとするならば、なおのことだ。
こうした、いままさに必要とされている観点をもちながら、グラス教授は資料を収集していたようである。「グラス文庫」には、わずかであるが、生物学に関連する研究資料もあれば、C.ダーウィンやH.スペンサーの著作も数点ある。両者は19世紀に進化論の洗礼を受けた論者である。現在、進化論は、人間を包摂する生物の成り立ちそのものを知るうえで絶対に不可欠であり、あらゆる学問領域からその必要性を痛感されている理論でもある。グラス教授は、早くからそのような、人口学における進化論的観点の必要性を看取していたのであろう。
私事で恐縮だが、マルサス研究で修士論文を執筆する際、食糧も食べれば子供も作る、「生物としての人間」という観点をわずかでも持ち合わせている18,19世紀の研究書を探していると、たいがいは「グラス文庫」にあったものである。「グラス文庫」のラインナップから浮上してくる、グラス教授の幅広い視座には、いまも教えられることが多い。現代の人口問題の重要性と問題性を再確認する上でも、一度「グラス文庫」に訪れてみることをお勧めする。

「HUL通信」(第35号、2001.10.15、第36号、2001.12.20、法政大学図書館)より

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白木文庫

(HUL通信編集部)

「白木文庫」(5,413冊)は、英米児童文学者で翻訳家の故白木茂、本名小森賢六郎氏(1910~1977)の個人コレクションです。白木氏は、英米文学関係の翻訳家で、アレンの「アクイラの戦い」、クルーティーの「回転する車輪」などのほか、第2次大戦後から1960年代にかけて、海外児童文学の紹介、訳出に多大の貢献をされました。氏の創作(主著)には、少年歴史小説「原始少年ヤマヒコ」などがあり、翻訳には「シートン動物記」(全6巻、偕成社、1961)など、約200点にのぼる訳出があります。
寄贈者の白木氏が英米児童文学を中心とした文学者、翻訳家だったことから、寄贈図書のほぼ100%が洋書(英文書)です。内容の概略は、百科事典類17タイトル、個人伝記153タイトル、伝説・民話155タイトル、童画・絵本392タイトル、童話1775タイトル、小説・物語256タイトルほか、著名な作品を網羅した内容となっています。特に児童文学の分野では、これだけの資料をまとめて入手することは極めて困難でしょう。

「HUL通信」(第30号、2000.4.1、法政大学図書館)より

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スイス・ロマンド文学コレクション

コレクション概要
1992年に法政大学図書館が購入した資料と、2010年に本学社会学部加太宏邦教授より寄贈された資料で主に構成されています。
 「洋書」 約2000タイトル  「和書」 約200タイトル 「その他資料」(11分類)

所蔵形態
法政大学多摩図書館書庫に請求記号950/30のもとに一括して配架してあります。「その他資料」についてはカウンターに申し出てください。

解説

社会学部教授
加太宏邦

スイス・ロマンド文化
 スイスには4つの公用語がある。そのうちの一つがフランス語で、120万人の住む言語圏を構成している。この言語圏を、人々は愛郷の気持ちを込めて、「スイス・ロマンド」地方と呼び習わす。フランスの一部を思わせる「フランス語圏スイス」をあえて避けた名称である。有名なスイス・ロマンド交響楽団の名前の由来もここにある。ジュネーヴ、ローザンヌ、フリブール、ヌシャテルなどの国際的に著名な町が点在するこの地域は、思想家ルソー、文人スタール夫人、言語学者ソシュール、心理学者ピアジェ、建築家ル・コルビュジエ、詩人サンドラール、赤十字創設のデュナン、映画監督ゴダール、音楽家アンセルメ、指揮者デュトワなど数多くの文化人を輩出し、また宗教改革のカルヴァンや啓蒙思想家ヴォルテールなどヨーロッパ精神文化を形成するのに多大な影響力をもたらした人々の活躍の場でもあった。ジュネーヴ学派としてその名を知られたマルセル・レーモン、ジャン・ルーセ、アルベール・ベガン、ジャン・スタロビンスキなどは世界の文学研究にも大きな刺激をあたえた。チャップリンやオードリー・ヘプバーンなどが晩年をすごした魅力ある文化圏としてもよく知られる。
 当コレクションはこのような地域に関わった人々によって長い歴史の中で育まれた数多くの文学作品を中心に、文化的営為を浮かび上がらせる周辺的諸著作と資料を網羅した、和洋あわせて約2000タイトルを収蔵する日本で唯一のコレクションである。当蔵書がスイス・ロマンド文学・文化研究におおいに資することを期待したい。あわせて期待したいのは、当コレクションが、ともするとフランス国文学にのみに偏在するわが国の仏文研究にあらたな相互行為への関心と相対化の刺激を与えるきっかけとなってくれることである。

分野別概要

A 作品と研究書
• 文学作品:散文、詩、評論文、エッセー、民話、旅行記、回想録など
• 研究書:作品論、作家論、文芸評論、文学史、事典、文芸誌、研究雑誌など

B 周辺資料
• 文化:美術、演劇、映画論、画集、各地方方言論、比較言語(仏/瑞)、語彙集など
• 歴史:スイス全史、歴史人名、各地方史など
• 地理・風俗:スイス全土の風俗、各地方地誌、伝承、地図(全土)、観光地図、鉄道地図、ガイドブック、ヨーデル歌詞、写真集(アルプス風景、歴史記録)など
• 社会:憲法、政体、経済、統計、宗教、出版文化など
• 辞典・事典:文学、百科、歴史、方言、地理、地域(州など)、人名など • 雑:郷土料理、時計に関するものなど

C その他資料(書籍形態以外の資料など)*)
1. 書籍のコピー(手に入りにく作品)
2. スイス文化関連事項掲載雑誌(和書)
3. 作家別記事(新聞・雑誌)切抜き
4. 分野別記事(新聞・雑誌)切抜き(文化、社会、経済など)
5. 地図(全国・都市・交通など)
6. 観光パンフレット(全国、各都市・地域)
7. その他の資料(スイス著述家カード、作品朗読テープなど)
8. 紀要論文(抜刷):主に日本人による研究
9. 風景スライド([A:市町村別、B:テーマ別]約6000枚)
10. 別請求記号与もしくは重複した雑誌
11. 別請求記号与もしくは重複した図書
*)請求記号を付与せずに「スイス・ロマンド文学コレクション」に関連付けて別にリストを作成し、本コレクションの利用に供するように一括別置してある。「資料リスト」はカウンターに備えてある。

なお、当図書館には、「スイス・ロマンド文学コレクション」構築以前から所蔵しているスイス・ロマンド文化関係の図書が多く存在する。これらは、コレクション分類番号(950/30)とは別に、配置されている。ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)、バンジャマン・コンスタン(Benjamin Constant)、スタール夫人(Germaine de Staël)、アミエル(Henri-Frédéric Amiel)、ブレーズ・サンドラール(Blaise Cendrars)、ロドルフ・テプフェル(Rodolphe Töpffer)、ジャン・ピアジェ(Jean Piaget)、ジャン・スタロバンスキ(Jean Starobinski)などである。OPACで検索の上、併せて参看されたい。  

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「三木清文庫」と「戸坂潤文庫」

文学部教授
菅沢 龍文

終戦の年、1945年に法政大学ゆかりの二人の哲学者が獄中で亡くなっている。終戦1週間前の8月9日に戸坂潤(1900~45年)が、終戦後 1カ月以上経って9月26日に三木清(1897~1945年)が亡くなった。ともに時のファシズム政権に反したがゆえに獄中の人となり、ともに疥癬を患って亡くなった。この二人の文庫が法政大学にあることやその内容について、これまでに一度ならず紹介されてきた。
三木は1922/23年から1924/25年までヨーロッパに留学している。その最初の1年はハイデルベルクに、翌1年はマールブルクに、そして最後の 1年にはパリに滞在している。筆者が三木文庫を最近利用したのは、この期間の特に1923/24年に三木が哲学雑誌『ロゴス』に掲載された哲学者ガダマー(1900~2002年)の論文を当時読んだかどうか、についての確証を得たかったからである。
果たせるかな、目当ての『ロゴス』は「三木文庫」のなかにあった。そして確かめたところ、三木独特のくっきりとした短い縦傍線が所々のページの余白に引かれていた。三木は『ロゴス』のなかのリッケルトの論文も同様に傍線を引いて読んだ形跡がある。これについては不思議でない。三木は留学当初、当時新カント学派の著名な哲学者リッケルトのもとで学ぶことを志したからである。それでは、なぜ三木はまだ無名の若き哲学徒ガダマーの論文を読んだのか。
この問いに答えるのは、少し事情を知っていれば簡単である。三木はマールブルク大学で哲学者ハイデッガーに師事する。ハイデッガーは教授として赴任したばかりで、世に注目を浴びだしたところであった。ガダマーはハイデッガーのもとで学び始めて間もなく、「ロゴス」論文でハイデッガーの論敵ハルトマンの『認識の形而上学』を、ハイデッガーと同じ立場で批判した。実はこの論文をすでに書いたガダマーがマールブルクで三木の家庭教師となったのだから、この論文を三木が読んでいても別に不思議はない。
こうした不思議でないことも、実際に三木文庫の『ロゴス』誌を目の当たりにするとなお真実味を増す。これは一例であり、ドイツ滞在中に入手されたものが三木文庫には数多い。三木は第一次世界大戦後の不況下ドイツでのマルク大暴落にも助けられて、多数の貴重な書物を買ったのであった。だから、この時代にドイツで購入できるような哲学書を探すならば、まず三木文庫にないか調べるのが順当である。
戸坂文庫はかつて三木文庫と並んで富士見の図書館にあったが、現在は多摩図書館にある。空間論から始まった戸坂の哲学研究を反映して、戸坂文庫には大戦前の自然科学系の文献が揃っている。戸坂が唯物論研究会(1932~38年)を主催して世に活躍したことを思えば、マルクス主義文献も多数あるだろうと期待されるが、実際にはほとんど存在しない。三木文庫についても、三木は留学から帰国後日本でいち早くマルクス主義を世に問うて知られたのに、同じことが言える。危険思想とされたマルクス主義の文献は、三木や戸坂の知らないうちに消失したものと考えられる。
戦後も図書の散逸が見られたが、現在の戸坂文庫には和書654件、洋書905件(図書館のデータ上の集計)あり、三木文庫には和書4451冊、洋書3715冊(桝田啓三郎記)ある。これらは第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時代の一面を知るための貴重な文献であり、また二人の希有な哲学者の思想展開を辿るうえでも重要な資料である。

「HUL通信」(第38号、2002.7.10、法政大学図書館)より

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藤井甚太郎文庫

名誉教授
安岡 昭男

この夏、九州から墓参に上京した通信教育史学科の卒業生を多磨霊園の藤井家墓地に案内した。夜間の教室で藤井教授に親しく「史学演習」を受講した久留米のN氏である。
藤井甚太郎教授(1883~1958)は戦後、二部史学科創設の翌年(1949)、実践女子大学から法政大学に迎えられ、史学科の基礎を据え、大学院日本史学専攻開設後は板澤武雄教授と共に専攻課程の充実と研究者の育成に努め、昭和33年4月名誉教授となり7月病没した。福岡県の産。県立中学修猷館、第五高等学校を経て、明治42年東京帝国大学文科大学史学科卒業(卒論は「筑紫辺防考」)、同大学院では徳川季世史を専攻。『徳川慶喜公伝』の編纂所に入り、渋沢栄一の知遇を得たが、大正3年(1914)文部省維新史料編纂会事務局に移る。同会副総裁は同郷の金子堅太郎(枢密顧問官)であった。編纂官に進み、史料編修課に改組後、昭和20年編修官で退官。大日本維新史料稿本は四千冊を超え、同局は小西四郎・遠山茂樹らの維新史家を輩出した(ともに法大講師)。大正14年度に始まる京都帝大文学部出講は大学での明治維新史講述の最初という。同じころ吉野作造を中心とする明治文化研究会の同人となり『明治文化全集』を刊行し、日本史籍協会叢書の校訂編集を分担、戦後は開国百年記念文化事業会常務理事に任じ、『明治文化史』『日米文化交渉史』同英文版の出版を手がけた。著書は『明治維新史講話』『日本憲法制定史』など。
公務の憲政史関係調査研究のほか、各種団体の招請による講演は全国にまたがる。若者には折にふれ「世渡りの道」を説く人生の師でもあり、教え子たちに慕われたのである。
本学の藤井甚太郎文庫には、旧蔵書のうち政治・法制を主とする各分野の刊行物(明治期を主とし明治以前・大正・昭和期にわたる)で、内外の憲法制定・議会政治・地方行政などに関する和書を中心に、現在では入手の難しい資料が多数含まれている。詳しくは『法政大学所蔵文庫案内』(法政大学図書館1991)の「藤井甚太郎文庫について」に譲る。『藤井甚太郎文庫目録』(同1996)は洋書を除き和雑誌を含む。
文庫にある黒田行元著『権利民法大意』(目録では『民法大意』上・下1874)は黒田行元の研究者平田守衞氏(故人)から『法政』1990年6月号(「藤井甚太郎文庫について」)の紹介記事で著作の存在を知ったとして複写提供を求められ応じた。その後、香川大学「神原文庫」所蔵が判明したという。黒田行元(1827~1892)は通称行次郎、麹廬と号し、近江・膳所藩校頭取の次子。大坂の適塾に学び江戸に遊学、帰藩し藩校で教え、のち幕命により開成所に出仕。維新後、著述を専らとし、一時滋賀県師範学校漢学教授。和漢梵洋の学に通じ、ロビンソン・クルーソー漂流記を『漂荒紀事』の名で初めて邦訳したことで特筆される(平田守衞著『黒田麹廬と「漂荒紀事」』2巻京都大学学術出版会1990参照一請求記号市図開架289.1/723/2)。
貴重史料に満洲国の憲法制定関係がある。昭和9年(1934)満洲国の立法院趙欣伯が特命憲法制度調査使として来日、藤井編纂官(日本憲法制定史)・清水澄行政裁判所長官・金森徳次郎法制局参事官(のち長官)らの講義を聴いた。表紙に鉛筆で「趙欣伯博士私案」と書いた「調査者之私案初稿」(2冊本文孔版)と〉『憲法制度調査紀略』(康徳元年十月特派憲法制度調査使辨公處 活版)などがある。康徳元年は1934年満洲国帝制実施の年で結局憲法制定に至らず、同特使は立法院長を免官、東京に留まる。趙欣伯は明治大学卒、法博、花井卓蔵に師事。建国前は張作霖法律顧問、奉天市長。のち満洲国宮内府顧問官になっている。

編集者注 本文庫の配置場所は市ヶ谷図書館準貴重書庫。事前申請により利用可能ですが、詳細はカウンターでお尋ねください。

「HUL通信」(第39号、2002.10.15、法政大学図書館)より

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「野上文庫」と「古川久文庫」

野上記念法政大学能楽研究所所長
文学部教授 西野春雄

漱石門下の英文学者で、能楽研究に新分野を開いた元総長野上豊一郎博士(1883~1950)の功績を記念し、1952年4月、法政大学に我が国初の能楽研究所が誕生した。爾来、顧問の一人の弥生子夫人から、桃山時代の謡本の中で最も貴重な博士遺愛の「車屋謡本」全百冊の寄贈を受けるなど、篤志の方々からの寄贈が相次ぎ、鴻山文庫・般若窟文庫・観世新九郎家文庫等の諸文庫も加わり、能楽研究所は能楽研究の拠点として、国内外の研究者や演者に広く活用されている。今回紹介する「野上文庫」と「古川文庫」にも有益な資料が多い。「野上文庫」は、弥生子夫人が99歳で長逝された1985年3月以降、節目ごとに野上家から寄贈を受けた野上夫妻旧蔵の能楽関係資料約300点からなる。江戸初期の観世流謡本「日爪忠兵衛宗政手沢本」10冊や、下掛り宝生流の謡を嗜まれた野上夫妻愛用の謡本揃二組など、貴重資料が多い。「古川文庫」は、能楽研究所発足以来、1981年3月まで兼任所員として尽くされた狂言研究家古川久氏(1909~1994)の旧蔵書で、市ヶ谷図書館と能楽研究所に分蔵されている。
古川氏は名古屋市に生まれ、初め医学を志すが文学研究に転じ、東北帝大法文学部で小宮豊隆に師事。馬琴、漱石、世阿弥研究を進め、後年、岩波書店刊『漱石全集』新書版の注解を担当されている。一方、1936年から六世野村万蔵に狂言を習い、狂言語彙の収録を初めとして狂言研究に励み、戦後の研究界をリード。該博な知識と穏健な言動は新時代を模索する能楽界の指針となった。旧制松本高校、東京女子大学ほかの教授を歴任。能楽研究所では人的な面で「和」の中心であった。優れた教育者の一面もあり、旧制松高時代の教え子には作家の北杜夫・辻邦生、狂言研究家の小林責氏たちがいる。労作『狂言辞典語彙編』小林氏と共編の『同事項編』『同資料編』(東京堂出版)の三部作ほか、『明治能楽史序説』(わんや書店)など多数の著書がある。
さて古川文庫は、生前1989年の秋に一括購入された。市ヶ谷図書館のものは日本近世文学関係資料で、全325冊。江戸初期の辞書類、漢籍とその注釈書、国文学の古典、宣長・契沖・篤胤ら著名な学者の著書、地誌・名所図絵の類など多岐にわたり、なかでも、書名は上げないが、種彦・一九・馬琴・春水ら江戸後期の文学者の作品を出版した版本が主体。仮名草子・浮世草子・読本・咄本・人情本・滑稽本・合巻・黄表紙など、種類も豊富で、江戸期の文学的出版物の各種がほぼ網羅されている。この多彩な蒐書の背景には、近世文学研究で名高い藤井乙男氏が古川先生の岳父であることも関係するようである。準貴重書庫に収蔵。
本学図書館には、江戸時代刊行の版本類がほとんど所蔵されていないので、古川文庫はその欠を補って余りある。出版文化の繁栄を背景に隆盛をみた近世庶民文学の場合、絵と文が一体の関係にある合巻や黄表紙に代表されるように、翻刻本だけを対象としていては限界がある。近世文学を研究しようとする学生・大学院生にとっても有益な資料で、書名は省略するが、稀覯書も少なくない。目録作成には、当時の文学部教授松田修先生(近世文学専攻)が中心になり大学院生たちが協力した。これらはOPACで検索できる。
能楽研究所の分は、狂言および能に関する資料が中心で、全部で205点を数える。狂言研究者で兼任所員の橋本朝生氏作成の蔵書目録が研究所紀要『能楽研究』第26号に掲載。狂言関係の写本に未紹介の貴重書が多く、今後の活用が期待される。

編集者注 「野上文庫」は野上記念法政大学能楽研究所所蔵。利用の詳細については、能楽研究所にお問い合せください。
「古川文庫」の配置場所は市ヶ谷図書館準貴重書庫。事前申請により利用可能ですが詳細については直接カウンターにお尋ねください。

「HUL通信」(第40号、2002.12.10、法政大学図書館)より

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正岡子規文庫

「子規文庫チチェローネ*」
文学部兼任講師
島本 昌一

閲覧希望者はまず「正岡子規文庫目録」で全体を知り、1冊を借りてみよう。晩年、殆ど病牀を離れることができなかった子規の病室には、いつでも披見できるように蔵書が横積みに整頓され、本の小口には筆で書名が書き込まれている。表紙には分類が記され、それに見合う自筆の蔵書目録が置かれている。総数貮千数百冊、さして多い数ではないが、これが彼の蔵書の殆ど総てであり、絶え間ない創造活動の源泉であった。
書籍には友人から贈られたものもある。彼は丁寧に入手事情を巻軸に記す。圏点や評を付けながら読む。時には長文の鋭く激しい評を書込む(目録の図版で確認されたい。また「獺祭書屋(だっさいしょおく)図書」の朱印が押されているが、意味に迷われる方は漢和辞典を引く労を惜しまれないように)。

大学・予備門時代―洋書と自筆講義録―

蔵書には洋書約50冊がある。子規の英語力はどれ程であっただろうか。彼は常に漱石と比較されるので、過小評価されているように思われるが、見直されるべき水準にあるように思う。蔵書には彼に俳句の表現に開眼させた(文体・レトリック)、H.Spencer"Philosophy of Style"がみえる。L.Busseの"Aestetics"の授業には余り出席しなかったらしく、友人が英文講義要旨をもらってきて、「正岡君十銭」といった要求をしたりしている。  歴史や自然科学筆記ノートは10冊あって授業の様子が分ろう。なお、明治の青年群像が活写されている子規雑記帳「筆まかせ」(岩波文庫)を傍に置くことも忘れないようにしよう。

漢詩文の素養

祖父大原観山、叔父加藤拓川の漢詩文集等の自筆写本を含め、漢籍は豊かである。漱石との交友も互いの漢詩文の創作に始まっており、これから研究すべき問題も多い。
蔵書には白話小説「古今小説」がみえる。尊経閣文庫等に1,2部現存するに過ぎない希覯本で、刷りもよい。

明治新文学「俳句」の創造

俳句は子規が最も力を入れたものであるから、連歌から明治俳書まで最も多い。10冊ほど存在する歳旦帳を例にとってみよう。歳旦帳とはその年の宗匠の趣向を披露する元旦の摺物であるが、書肆が各宗匠のものを合冊して売出しており、当年の俳壇が展望できるので珍重されている。元禄2年の「大三物(おおみつもの)」をみる。すると夥しい子規の圏点がみえる。この本のみではないが、これはレトリックの材料に抜書きを予定した句についている。後に抜出され「分類俳句全集」という途方もない大著となった(全集とは別に刊行されている)。子規の文章は歯切れがよく、時に大言壮語癖を感じさせるが、この新文学創造の背後に如何に膨大な努力が払われていたかを知るよい例であろう。
ところでこの元禄2年は芭蕉が奥の細道の旅に出た年であった。「大三物」はこの年の俳壇を概観できる貴重な歳旦帳であるのだが、蔵書は公開されていなかったので一般に知られなかった。現存唯一の版本である。希覯書といえば、子規の出発点である松山の俳誌「真砂の志良辺(しらべ)」も忘れられない。

短歌の革新

和歌の主要なものは明治活字本で読める。子規も活字本に依ることが多い。日本歌学全集の「万葉集」は病牀で寝て持てる大きさに裂かれている。「歌よみに与ふる書」前後に読まれた「本居宣長翁全集」には長文の評があり、中に歌は「四五万首モ詠ンダラ」多少分るように成ると事もなげに言っているが、これが大言壮語でないところに明治の気骨があるのであろう。

病牀六尺の世界―絵画―

最晩年、病牀と前の小庭しか世界がなくなった時、開けてきた自然や人間の洞察に子規文学の真骨頂がある。絵画への興味は生涯に亘るものであったが、やはり晩年の関心が深い。各種画譜や豊国・広重より明治の暁斎・芳年まで、かなり豊かである。たとえば文鳳の画風の如く、「手競画譜」と随筆の記述をじっくり対比してみたい。

幕末の碑史より明治文学へ

幕末碑史については子規の評論に詳しい。また忘れられていた西鶴、近松の文学が明治にどのように発見されたか、今日では殆どみかけない明治の活字本で調べることは意義のあることであろう。逍遥の「当世書生気質」初版の4分冊分が現存する。

*チチェローネ(伊)・・・・・・「案内」という意味

「HUL通信」(第34号、2001.7.15、法政大学図書館)より

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子規文庫

(HUL通信編集部)

明治を代表する俳人、正岡子規(1867~1902)。彼の所用していた蔵書のコレクションを法政大学図書館が所蔵していることはご存知でしょうか。俳句の書物を中心に、2000点を超える和漢洋書で構成され、自筆ノートのほか、なかには世界で3点しかない漢書も含まれています。
この「子規文庫」は、昭和24年(1949)、東京、根岸の子規庵で子規の遺品を守り続けてきた寒川鼠骨を介し、本学に寄贈されました。鼠骨(1874~1954)は少年期から同郷の正岡子規に兄事し、明治35年死の床にあった子規を看取った人物です。子規亡き後は子規庵主となり、第二次世界大戦の戦火から遺品、蔵書の数々を守りぬきました。それらの保存に病苦をおして力を尽くした鼠骨は、「子規文庫死を賭して守り忌を修す」の句をつくり、その決意を表明したほどです。「文庫」が法政大学図書館に寄贈されたあと、時代の流れでその保管場所は川崎、麻布、富士見校地と変わりましたが、鼠骨が句に込めた志は今も受け継がれ、貴重書庫内に大切に保管されています。

(参考文献)
「正岡子規文庫目録」(法政大学図書館編、市図閉架377.28/48、多図閉架029/95//RB、他)
「正岡子規の世界」(寒川鼠骨著、911.36/46)

「HUL通信」(第33号、2001.4.1、法政大学図書館)より

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「桝田啓三郎文庫」に寄せて

文学部教授
星野 勉

「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ」。
これは若きキルケゴールがノートに記した生涯を貫く彼の確信である。キルケゴールの生涯は、冷ややかな抽象概念に逃げることなく、不安、苦悩、そして絶望のなかで、人生の意味を問い、追い求める自分自身との血みどろの格闘であった。 「生きているということには不安があるんだ」という、当時本学のドイツ語教授であった内田百閒のことばによって方向づけられたとされる桝田啓三郎先生の研究生活も、生涯取り組まれたキルケゴールさながら、ご自分自身との熾烈な格闘であられたのではないか。本学図書館地下2階の書庫に配列されている「桝田啓三郎文庫」のゆうに-万冊を超える蔵書(洋書約7,300冊、和書約4,300冊)のあいだに身を置いて、私は桝田先生が研究者として挑まれた壮絶な戦いの跡を見たような思いがした。
桝田啓三郎先生は、本学の文学部哲学科を1930年に卒業され、1934年に本学の予科教授に、1948年に文学部哲学科教授に就任された。その後、千葉大学、都立大学に移られてからも、兼任教授、非常勤講師として長年にわたって本学で教鞭をとられた。
桝田啓三郎先生は、独学でデンマーク語を学ばれ、キルケゴールの原典から直接翻訳され、研究された草分けである。したがって、本文庫の最大の特徴は、日本でのキルケゴール研究が最初に準拠したキルケゴールのドイツ語訳の著作集(シュレンプ編訳、全12巻、1909-22)ばかりか、デンマーク語のキルケゴール全集の決定版(ドラクマン、ハイベルク、ランゲ編、ヒンメンストルプによる用語解説を含む全15巻、1920-36)、および遺稿集(1909-48)が含まれている点である。
「桝田啓三郎文庫」が個人文庫として異色だと思われるのは、ギリシャ語、ラテン語から始まって、英語、ドイツ語、フランス語はもとより、デンマーク語を含む北欧語に至るまでの言語の多彩さである。これは桝田先生ご自身の卓越した語学力を示すものであるが、ご子息の桝田啓介教授によれば、本学ドイツ語教授であった語学の天才、関口存男の影響ではないかということである。桝田先生の翻訳されたものには、キルケゴール以外に、ウイリアム・ジェームズ、フォイエルバッハ、フイヒテ、ベルグソン、デカルトなどがある。
また、ギリシャ哲学、ドイツ観念論、現象学など哲学研究に必要な基本文献が網羅されているだけでなく、文学作品が多く収蔵されている点にも、驚かされる。というのも、自戒の念を込めて言えば、比較的最近の研究者は、学生時代はともかく、自分の専門の書籍以外は読まなくなる傾向があるからである。ここに、最近の研究者にはない、先生の人文学的教養の幅と奥行きを認めることができる。ちなみに、キルケゴールによれば、真理とは客体的(外面的)なものではなく、それをわがものとすれば精神が絶えず躍動する生ける教養のことである。そして、桝田先生はキルケゴールを詩人とも呼ばれ、不安、苦悩、そして絶望からの脱出を詩的な想像力に賭けられたふしがある。
ところで、「桝田啓三郎文庫」は、現在、先生をキルケゴール研究へと導いた恩師、三木清の文庫(「三木清文庫」)に並んで配置されている。しかし、それにしても、獄中死という非業な最期を遂げた三木清の棺をのせた荷車を多摩刑務所から牽いて帰られたとき、桝田先生の胸中をどんな思いが去来したことであろうか。

「HUL通信」(第37号、2002.4.1、法政大学図書館)より

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ルボン文庫

図書館事務部長
河原 由治

ミシェル・ルボン(Michel Revon 1867-1947)は、法政大学の前身である和仏法律学校の教頭ボアソナードのフランスへの帰国(1895年、明治28年)に伴い、その後任者に迎えられた。
彼はボアソナードの推挙により、1893年(明治26年)1月8日に来日し、司法省名誉法律顧問、東京帝国大学法科大学教授として活躍していたが、パリ大学からの招聘で帰国する1899年(明治32年)までの7年間を法学者として、学監である梅謙次郎を助け、本学の発展に尽力するかたわら、日本文化の研究に専心した。帰国後のルボンは、1920年にソルヴォンヌ大学教授になり、1937年に退官している。1947年1月10日、79歳で生涯を閉じた。
このミシェル・ルボンの蔵書は、彼の嫡子ルイ氏から1989年に寄贈された。ルボン文庫と名づけられたコレクションの内容は、和図書183冊、洋図書327冊、和雑誌142冊(14タイトル)、洋雑誌341冊(26タイトル)、書簡、写真、ルボン肖像、エッチング原画など53点、合計1046点からなっている。
和図書は日本歴史・文学に関するもの、教科書、辞書、文法書が大半で、彼の著書「日本文明史」(森順正訳)が含まれている。洋図書は明治20~30年代の欧米の日本研究あるいは紹介書が目立つ。「Hoksai」(1896)、「Anthologie de La Litterature Japonaise」(1910~1919)、「Histoire de La civilisation Japonaise」(1900)、「La Shintoisme」(1904,1905)等の著作がある。洋雑誌には、和仏法律学校のフランス語機関紙の役割を果たしたユニークな仏文雑誌「Revue Francaise du Japon」も含まれている。

「HUL通信」(第31号、2000.7.15、法政大学図書館)より

ミシェル・ルヴォン文庫とミシェル・ルヴォンの解説

社会学部教授
相良匡俊

法政大学多摩図書館の地下2階には個人文庫のコーナーがあります。法政大学に関わりのあった先人たちの蔵書が配架されているのです。その一隅にミシェル・ルヴォン文庫があります。数はそれほど多くないのですが、19世紀末フランスのしっかりした学術書と並んで、江戸時代の和本が並ぶありさまは不思議な雰囲気をかもし出しています。そこにはルヴォンという一人のフランス人の運命と、その蔵書の辿った運命が秘められています。ルヴォンは法政大学内部でもほとんど忘れられていました。まず、この人物を紹介しておきます。

ミシェル・ルヴォン(Michel REVON)は1867年、ジュネーヴで生まれました。母はスイス人であったということです。そしてアルプスに近いアヌシーで育ち、グルノーブル大学で学びます。この大学は、法政大学の基礎を築いたボワソナード博士が教えていたこともあります。ルヴォンはとてつもない秀才であったらしく、23か24の時、すでに法学博士の学位を得ており、25歳の時、1892年には『国際仲裁』という題の大きな学術論文を出版しています。国際仲裁というのは、国家と国家の間の紛争を戦争によってではなく、裁判のようなやりかたで解決しようとするもので、このアイデアは、当時ヨーロッパでしきりに議論されていました。実際に、1901年にはオランダのハーグに常設仲裁裁判所が設立されます。ルヴォンの論文はそれなりの評判を呼んだようです。彼はこの論文を刊行した後、日本政府からお雇い外国人として招聘されることになるのです。  1893年1月、26歳になる直前、ルヴォンは司法省顧問として東京に到着し、同時に東京帝国大学法科大学の教授に就任します。そして同じころからルヴォンは法政大学の前身である和仏法律学校でも講義を持ちます。司法省の顧問としては、外国との交渉に関してアドバイスすることが仕事であったようです。いかに秀才であっても、20代半ばの顧問というのは何となく心細く思われます。
開国当時、日本は欧米諸国との間に不平等条約を結んでおり、関税の割合を自分で決めることができず、また外国人が罪を犯した場合には日本の裁判所は手を出すことができず、外国の領事裁判に委ねることになっていました。さらに外国との交流が盛んになるに従って、外国の政府と交渉しなければいけないことも多く起きるようになります。国際的なルールにのっとって処理する場合、どうすればいいか。明治政府を担った人々は薄氷を踏む思いを感じ相談相手が欲しかったのでしょう。
ルヴォンは1895年、ボワソナード博士の帰国にともなって和仏法律学校の教頭というポストに就きます。30歳にならない若者でしたが、ルヴォンはすでに帝国大学法科大学を頂点とする法律学界で大物となっており、また日本に居住するフランス人の世界でもリーダーとしての地位を築いていたと思われます。そして、和仏法律学校を発行元としていたフランス語の雑誌『仏文雑誌』の編集にも深く関与していたと見られます。
1896年、ルヴォンはいったんフランスに帰国します。この時からルヴォンの第二の人生が始まります。自国に戻ったルヴォンは、パリ大学文学部に『北斎』と『日本の華道』の二つの論文を提出し、文学博士の学位を取得します。ルヴォンは、フランスで日本に関係するテーマで博士号をとる最初の学者になります。再び日本に戻ったルヴォンは日本政府との契約が完了するまで6年半にわたって日本で過ごし、明治32年(1899年)9月に帰国します。

フランスに帰国したルヴォンはこの年(1899年)秋からパリ大学文学部の講師となり、「極東諸民族の歴史と文明」という講義を担当します。法律学者から日本学者へと転身したルヴォンはこの後、10年あまりにわたって活躍します。日本文明史に関する講義と著作の刊行、神道に関する講演と執筆の他、彼は日本文学のアンソロジーを刊行しています。この本は好評を博したようで、数回にわたって版を重ね、またドイツ語にも訳されています。1920年、パリ大学文学部には日本文明史講座が開設されます。ルヴォンは講座主任教授となり、1937年の定年退官までこのポストに留まりました。ルヴォンが死去したのは第二次世界大戦直後の1947年でした。
第二次世界大戦後、フランス日本学が大きく発展するのは1960年代以降のことで、ルヴォンの時代とは大きな断絶がありました。断絶のなかでルヴォンの名は忘れられます。法政大学においても、ルヴォンが去った頃からフランス系の学問は衰退し、同じようにルヴォンの記憶は薄れて行きます。

ルヴォンを蘇らせたのは、かつて法政大学第二高等学校で教鞭をとっておられた島本昌一先生です。島本先生は法政大学第二高校では英語を教えておられたのですが、実は近世文学の専門家で、主に俳諧の歴史についていくつもの業績を発表しておられます。たまたま明治時代のヨーロッパ人による日本の神道研究史について調べるなかで、ルヴォンの名前を発見なさり、法政ゆかりの人物として調査を始められたのでした。島本先生は文献調査の名人でいらしたので、ルヴォンについて材料の許す限り調べ上げ、いくつかの論考を発表なさいました。そして、ミシェル・ルヴォンの長男ルイ氏と連絡をとることに成功なさり、島本先生は1986年、フランスに赴かれ、パリの近郊の旧ミシェル・ルヴォン邸に住むルイ氏に直接面会し、親交をもたれることになったのです。島本先生はルヴォンの著書など若干の資料を譲り受けられたようです。これらは法政大学の現代法研究所に納められています。

1989年、すでに90歳を超えておられたルイ氏は、父ミシェルの代から住んでいた屋敷を売却されたのだそうです。ところがこの際、隣家の屋根裏にミシェルの旧蔵書が発見されます。フランス語、英語などの洋書と和書は島本先生が譲り受けられ、さまざまな手続きを経て、法政大学に帰属することになりました。法政大学図書館ミシェル・ルヴォン文庫がそれです。蔵書の規模は、法政大学図書館の分類によれば、和図書が183冊、洋書が327冊、和雑誌が14タイトル142冊、洋雑誌が26タイトル341冊、その他53冊、計1046冊とのことです。島本先生がルヴォンに関して調査し、執筆された論考と法政大学図書館が作成した蔵書目録は、島本昌一『法政大学図書館ルヴォン文庫について』という題の下に一冊にまとめられています。300/105というのが整理番号です。ルヴォン文庫は、ルヴォンと島本先生、二人の先人による苦労の結晶です。一世紀近い時を経て日本に戻った本たちは、もっとも適切な場所に身を横たえることになったと言ってもいいでしょう。

ルヴォンの蔵書はかつての持ち主と同様、あるいはそれ以上に数奇な運命をたどったようです。どういう理由で、何時頃から隣家の屋根裏部屋にあったのかはわからないようです。正直に言えば、パリ大学文学部日本文明史講座主任教授の蔵書としては数が少ないように思えます。ルヴォン自身が一部を弟子に譲ったということも考えられます。さらにルヴォンの屋敷のある地域は1940年初夏から4年間にわたってドイツ軍の占領下におかれ、物資の枯渇した寒い冬には書物が焚き付けに使われることもあったそうです。 ルヴォンが法律学者としての前途を捨て、困難を覚悟の上で、日本学者として生きる決意をしたのは、日本の魅力によるものだったに違いありません。けれども、彼が日本にどのような魅力を感じたか、そしてそれは、当時のヨーロッパ社会のどのような側面に対抗する意味をもったのか、さらにルヴォンは日本の魅力をどのように描き、どのように説明しようとしたのか、これらは今日でも検討に値するテーマと言えるでしょう。ルヴォン文庫はこうした検討課題と取り組むとき、重要な手がかりを与えてくれるものと思われます。

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和辻哲郎文庫

文学部教授
濱田義文

和辻哲郎生誕百年にあたる昨年(1989年)、法政大学所蔵和辻哲郎文庫の完全整理が丸二年がかりで完了した。
和辻のほとんど全蔵書が一括して法政大学に譲渡されたのは、和辻歿後の翌昭和36年であった。 蔵書を散逸させたくないとの和辻照夫人の切望と友人谷川徹三氏の斡旋の結果であると聞いている。
それから長い年月が経過し、大学紛争中所蔵図書の散失が危惧されたこともあったというが、ともかく今回その全部が入念かつ周到に整理され、独立の和辻文庫として全貌が利用者の前に示されたことは大変喜ばしい。 和辻家と谷川家に対してもやっと責めは果たしたと言えよう。
幸い第三次「和辻哲郎全集」(岩波書店)の刊行中であり、和辻の全業績の積極的再評価の気運が高まっている時だけに、和辻文庫完成の意義は大きく学内外の注目を受けるだろう。
初めに和辻と法政大学との関係についてふれると、和辻は法政大学文学部創設当初の大正11年4月から京都大学へ転出するまでの三年間、教授として在職した。 法政大学図書館には、大正12年5月和辻哲郎寄贈の印のある『偶像再興』初版(大7)本がある。
和辻の法政時代は短いが、それ以後の発展を準備する重要な時期であった。 日本精神史研究を講義しながら他方西洋思想の源泉的研究にも従事し、精力的多面的に活動した。 なお和辻が東大教授になってからも一時期法政大学で倫理学講義を担当したことがある。
さて和辻文庫の主要特徴について言うと、総冊数約五千冊(和洋の比率二対一)で、分野は哲学を主とし人文・社会科学の諸方面に渉り、多彩である。書名の列挙は省くが今日入手しがたい貴重な文献が多数ある。
しかし何と言っても文庫の最大の価値は、多数の書物中に和辻自筆の書き込みのある点である。書き込みは傍線や符号から要約・疑問・評語まで種々雑多だが、和辻の研究方法や思考の機微が端的に知られ、じつに興味深い。
この書き込みの検討によって専門的利用者は、和辻の思想生産の秘密の現場に立ち会うことができ、研究上多大の便益を受けるだろう。
和辻思想の特質は、単線的な進歩史観や近代化論に囚われず、広大な多元的世界史的視界の中で、本質直感的思考と旺盛な想像力によって日本文化の独自性を生き生きと把え、ひいては人間精神の根源へ肉迫する所にある。 そこに偏りが生じる場合にも様々のすぐれた示唆が含まれている。和辻文庫が和辻思想の特徴を間接的に示す極めてユニークな文庫として、今後の研究の貴重な資料となることは間違いない。

「法政大学報」(No.9、1990.1.15)より